よく晴れた園庭で、子どもたちが遊び回っています。
畑で野菜をじっと見ている3人の子どもたちに、A先生が「そういえばこんな絵本があるよ」と、そのお野菜の絵本を紹介しています。 別の場所では、虫取り網を持って一生懸命にちょうちょを取ろうと走り回っている3人の子どもたちと一緒に、T先生も網を持って走り回っています。 砂場では型はめを一緒にしたり、感触を楽しんでいる子どもたちと一緒に楽しむ先生たちがいます。
ひかり組・にじ組の合同礼拝では、「気持ちが暗くなったら」という讃美歌を、身体いっぱい歌い踊る子どもたちがいます。
今日の聖書のお話しは、3人の漁師とイエスさまが出てきました。寸劇をやろうと立候補を募ったらどの子も積極的に4つの役をやりたがり、選ぶのが一苦労でした。
園生活の至るところに遊びがあり、子どもたちの笑顔と共に、イエスさまの笑顔も広がっています。
そして、遊びこそが知的好奇心、様々な身体能力、音楽の感性、想像力を伸ばす土壌になっていることに気付かされます。
もし虫取りがしたくもないのに無理やりさせられていたらどうでしょうか?あるいは、無理やり畑に連れて行かされていたら?子ども自らが遊びを見つけ・広げていくことに大きな意味があるのです。
けれども、このように書くと、何でもかんでも自由で放ったらかしにしているのではと…心配される方もおられるかもしれません。もちろんそうではありません。先生方が「一緒に遊ぶ」こと、関心を持って子どもたちの遊びに関わり、安全を確保しつつ、遊びを広げるための環境づくり、きっかけづくりが肝心であり、「放任」とはまったく違うものです。
それでは、礼拝などのお集まりなどが苦手な子どもたちにとっては、どうでしょうか? ここでも無理矢理に連れて行ったりすることはしていません。苦手な子どもたちのペースにも配慮しつつ、子どもたち自らが積極的に参加し、聖書の言葉を味わうことが出来る礼拝を目指して工夫しています。
自由保育でもあり、ゆるやかな一斉保育でもある、そのどちらの良さも「遊び」を通して活かしていきます。