一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
(コリントの信徒への手紙一12章26節)
始業礼拝の時、みんなで読んだ聖書箇所です。2021年度の年主題聖句として、何度も振り返りたいと願っています。
キリスト教は、いわゆる「ご利益宗教」ではありません。信じてお祈りしたからと言って、受験に合格したり、仕事に成功したり、お金持ちになったりするわけではありません。信じてからも変わらず、苦しいことや困難なことに出会います。また、失敗もしてしまいます。
そんな私たち「にも関わらず」、神さまは一人ひとりをかけがえのない<いのち>として愛し、共に歩まれるのです。苦しい時・悲しい時に、神さまは「共に」苦しみ・悲しまれています。嬉しい時・喜びの時、神さまは「共に」喜んでいます。
その神さまの愛を受けて、私たち一人ひとりも「イエス・キリストの体の部分」として、「共に」苦しみまた喜んで歩んでいこうと、聖書は呼びかけているのです。また、不必要と思われがちな「弱い部分こそかえって必要だ」とも聖書は言っています。
霊南坂幼稚園(東京)の後宮(うしろく)園長が次のように綴っています。
保育をしていると、さまざまな弱さと出会います。困ったことや苦しいことと出会います。…でも、今日までを振り返ってみるならば、その弱さや苦しさの経験を通して、強かったときには気づかなかった子どもや保育のもっと素晴らしい面を知ることができたのではないでしょうか。(『キリスト教保育』4月号)
苦しいことや弱さも大切にしつつ、喜びと安心の中で園生活を歩んでいきたいと願っています。