熊本キリスト教学園は荒尾と山鹿にキリストの教えをベースとした、優しく人間味の有る幼稚園を運営しています。

幼保連携型認定こども園

荒尾めぐみ幼稚園園だより

  • 3人の博士たち(第14号 2018年12月4日より)

  •  遠い東の国から、「3人の博士たち」がやって来て、「ユダヤ人の王に生まれた方はどこにいますか?」と尋ね回りました。「ユダヤ人の王」であったヘロデ大王は自分の他に王が現れるのかと焦り、3人の博士たちからベツレヘムで生まれることを聞き出すと、「行って、見つかったら、教えてくれ。わたしも行って拝もう」と告げます。不思議なのは、自分の家来を一人送れば良かったにも関わらず、ヘロデ大王はメンツを気にしたのか、しなかったということです。ヘロデ大王はイエスさまに会う機会を逃してしまうのです。  博士たちは星に導かれて、進んでいきます。でもその星の光は、幼稚園のページェントで使うようなはっきりしたものではなく、ささやかな光だったろうと言われています。  博士たちはこのささやかな星に導かれて赤ちゃんイエスに出会い、深い喜びに溢れました。はるばる持ってきた宝箱から、もっとも高価な黄金、乳香、没薬を献げました。  大切なことは、生まれたばかりの赤ちゃんイエスに出会ったのは、他でもない遠い東の国からやって来た学者たちだったという点です。神さまが示した愛は、最初から宗教や言葉、文化の枠に縛られず、すべての人に注がれているのです。  さて、博士たちは、「ヘロデのところへ帰るな」という夢をみました。それが神さまからの導きだと信じ、博士たちは別の道を通って、自分たちの国へと帰っていきました。  赤ちゃんイエスと出会った喜びは、今までの生き方とは違う別の道を学者たちに与えたのです。神さまに喜ばれる道、かけがえのない<いのち>を精一杯生きる道です。  ページェントで子どもたちが讃美するように、「神さまが独り子イエスを与えてくださったのは、私たち一人一人への愛を示すため」でした。この愛の中でこれまでとは違う「別の道」へと歩んでいきましょう。ささやかな星の光に導かれて。

  • 「人権フェスティバル」に向けて(第13号 2018年11月22日より)

  •  来週土曜日に予定されている「荒尾市人権フェスティバル」で、きりん組・うさぎ組がオープニングを担当することとなりました。「人権」について改めて子どもたちと考え話し合う、よい機会だと感じています。
     「人権を尊重する」と聞いて皆さんは何を思い浮かべるでしょうか。
     東京・世田谷に羽根木公園という都市部では大きめな公園があります。月に一回「シュロの木会」という方たちが、教会でお握りをつくって持っていき、ホームレスの方たちの支援活動をされています。その活動に参加させていただいた時のことです。野宿をされている一人一人の所を訪ねて行き、ベンチに座ったり、ブルーシートの上に座ったりしながら、お茶を一緒に飲みました。一人約40分、こちらから何か話をするというよりは、それぞれの方がその時話したいことを聴かせていただきました。どうも、お持ちするお握りよりも、一緒にお話しをする事の方が楽しいご様子で、本当に色々な話をして下さいました。
     ある方は、公園に来ているマナーが悪い人たちの事を、どうにかならないものかと考えていました。例えば、公園のトイレがよく詰まるそうなのですが、それは犬の散歩をしている人たちの中で、犬の糞を持ちかえらずにトイレに泥や石が付いたまま流す人がいるからだと話してくれました。皆さん人生経験が豊富なので、気付いたら私たちの方が学ばされることが沢山ありました。つまり、ボランティアに行った私たちが、むしろ恵みを与えられたのです。
     イエスさまは、弟子たちを社会の中で小さくされている人たちの所へと派遣しました。それは、上から施しをするためではなく、同じ所に立って出会い・分かち合うためでした。そうすることによって、神さまからの恵みを、沢山いただけることを、イエスさまは知っていたのです。
     「人権を尊重する」とは、神さまから愛されている一人ひとりとして、互いに出会い・分かち合うことだと、子どもたちに伝えていきたいと願っています。

  • 「非認知能力」を大切に(第12号 2018年11月7日より)

  •  見学者が来て下さる度に、どうやったらめぐみ幼稚園の思い・願いが伝わるか、また課題も含め伝えることが出来るか、試行錯誤しながら取り組んでいます。そのような中で、めぐみ幼稚園のキーワードとして、「非認知能力」があることに、気付かされました。
     先日、幼児教育学で大きな働きをされている汐見稔幸先生(東大名誉教授)の講演を伺った時にも、思いがけず「非認知能力」がキーワードでした。さらに先生から、これからの教育は丸暗記型ではなく主体的・対話的・深い学びにすることが大切だということを学びました。

    ①主体的学び 丸覚えの知識ではなく、生きて働く知恵。「させる」学びはすぐ消える。「やりたい」学びはいつまでも残る。体操教室を一生懸命スパルタ的にやっている園ほど、小学校での運動能力は低かった。一斉指導は逆効果。むしろ園庭の面積が広くて自由に遊ばせている子たちの方が、運動能力は高い(研究結果)。環境をどれだけつくってあげられるかが大切。

    ②対話的学び 適切な理解をつくり出していける対話力。人と関わることで、独善的ではなく協調的な人間性を育む。子どもたちの「口げんか」を見守る大切さ。

    ③深い学び 学んだことが実際の行動に移せる。

     この3つの学びのために、次のような非認知能力を乳幼児期に育てることが大切です。
    A. 目標を諦めない力、忍耐力
    B. コミュニケーション力(人の気持ちを汲み取り上手に応じられる)
    C. 社会情動スキル(いやな気持ちを上手に前向きに転換することができる)

     これらの非認知能力を育てるために、<子ども中心の保育><環境を通じた教育>を行い、多様な活動ができる環境を作り、子どもにまかせることを増やすこと。丁寧な保育(否定語・禁止語・命令語を使わない、ケアは原則1対1)が大切だと学びました。
     園として「非認知能力」を耕すために出来ることが、沢山あることに気付かされた講演でした。

  • 「人格形成」としてのキリスト教保育(第11号 2018年10月15日より)

  •  7月末にNHKラジオ第二放送「宗教の時間」において、『自分を裏切らない言葉を求めて』と題して、安積力也先生のインタビューがありました。安積先生は、私の母校を含むいくつかのキリスト教主義学校で教員・校長を担われた方です。先生が次のように言われています。

    経済的な合理性、経済を豊かにしていくために教育も使われ〔中略〕その子がその子自身になる。いわば人格の完成のためになされるべき教育が、逆に社会のために有用な人間を作るというところに、人格形成よりも人材育成に重点の基本が移ってしまっている。それを非常に強く感じますし、そこに私たちの国の人間教育の危機的状況を見るのです。

     キリスト教保育においても考えねばならない、とても大切な指摘であると感じました。荒尾めぐみ幼稚園が目指していることは、経済のための幼児教育ではありません。何よりも、一人ひとりが「人格」として神さま・家族・友だちから愛される存在であることに安心感を抱き、自分とお友達を大切にすることを育むことです。
     そのために、何よりも言葉かけを大切にするキリスト教保育において、園で先生たちが発する言葉が、子どもたちの深いレベルに届くものへと「深」化していく必要を痛感しました。
     この録音データを送って下さった浦上牧師(飫肥・子供の家幼稚園)が、次のように記しています。

    私たちのキリスト教保育は「人材育成」「立派な歯車作り予備軍」作りの保育でないし、「人材」の一つが壊れたら、それに代わる「人材」(歯車)を用意できるような人間を形成する保育とは対極に位置する保育をしています。子どもたちは大量生産された同型のプラスチック部品ではありません。 (「キリスト教保育九州部会だより」)

       何よりも「人格形成」をこそ目指すキリスト教保育を実践していきたいと願っています。

  • 「ネギは天才だ」~運動会に向けて~(第10号 2018年10月3日より)

  •  エンドウにも
     バラにもなろうとせず
     ひたすら、自分として育っていく故に
     ネギは天才だ


     昨年もご紹介した岸田劉生という洋画家による詩です。何よりも写実を大切にした画家でした。渡辺和子シスターがこの詩を巡って次のように書かれています。

     私たちは、ネギがエンドウになったり、バラになったりするのを天才だと思いがちです。そして子どもたちにも、エンドウになれ、バラになれと、望んでいることが多いのではないでしょうか。おまえはなぜエンドウのように実をつけないの、おまえはなぜバラのような高い値段がつかないの…と。 (『愛と祈りで子どもは育つ』)

     いよいよ運動会が近くなってきました。保護者の皆さんは、ついつい自分の子を他の子と比べて「できた/できない」で判断してしまうかもしれません。けれども、本当に大切なことは比較することではありません。「ひたすら、自分として育つ」子どもたちの姿を認め、親として受け入れることではないでしょうか。
     運動会の日まで、頑張らなかった子どもは一人もいません。それぞれが、精一杯練習したその頑張りを、何よりもまず認め、支えてあげてほしいと願っています。
     沢山の「ありがとう」と「よかったね」が聞こえてくる運動会になることを祈っています。

  • 「子育て」というスローワーク(第9号 2018年9月21日より)

  •  東日本大震災の被災地を、九州の教会の方々と研修で訪問しました。私にとっては1年半ぶりの東北でした。
     仙台空港に着いてから、集団移転先に建てられた集会所を訪問しました。私が5年間責任を担った被災者支援センター・エマオがずっと通わせていただいた仮設の方たちが、仮設を離れてバラバラになった後も、月3回その集会所に集まり、お茶っこや昼食会をしています。以前は毎日のように会っていた私との再会に、帰省した孫(?)のように笑顔で迎えて下さいました。

     エマオには全国・海外から約9,000名のボランティアが来てくれました。最初のオリエンテーションの際に、いつも伝えていた言葉が、「スローワーク(slow work)」です。
     のんびりダラダラという意味ではもちろんありません。速さや効率を重視するのではなく、ゆっくりでもいいから、とにかくワーク先の被災者の方たちのペースに合わせて、という意味です。すると、そこに「会話」が生まれ、「コミュニケーション」が生まれ、「出会い」が生まれます。気づくと、お手伝いに来た私たちボランティアが、むしろ逆にたくさんのものをいただいているのです。この「スローワーク」を思い出すことの出来た研修でした。
     
     子育てとは、まさに「スローワーク」ではないでしょうか。子どもたち一人ひとりに耳を傾け、寄り添い、歩む。速くもなく、効率的でもありません。しかし、その「出会い」の中でふと気づくと、私たちは子どもたちから沢山のものをいただいています。

    「子どもたちがちいさい頃は、いつもわたしが子どもを抱っこしているつもりでした。でも、実は自分が抱きしめられていたんだ、と気づいたのです」(絵本作家・瀧村有子)

     「スローワーク」を幼稚園でも大切にし、各ご家庭でも大切にしていただければと願っています。

  • キリスト教保育とは(入園案内のしおりより)

  • ◯「キリスト教保育」について
     荒尾めぐみ幼稚園では「キリスト教保育」を実践しています。
     キリスト教保育の現場では、「礼拝の時」(賛美・祈り・みことばを聞く時)、今日の日に生かされて十分に楽しく「遊ぶ時」、成長に合わせて「生活する時」を、大事にします。この3つが実現できた時、荒尾めぐみ幼稚園が『陽だまり』のような場所になると信じています。
     同じキリスト教保育を実践されている大漉知子先生(東洋英和女学院大学付属かえで幼稚園)が次のように記されています。

     私自身、4歳の時に家の近所の教会付属幼稚園に入園しました。50年以上も前のことです。よく泣いていた私だったはずなのに、記憶の中に残るのはどれも陽だまりの光景です。それと共に、担任の先生の「イエスさまは、いつも知子ちゃんと一緒にいてくださいます」という声が思い出されます。
     話は変わり今から数年前、ある年の卒業生の同窓会で、すてきな大人に成長した一人から、「幼稚園は陽だまりの時でした。私を私として大切にされたからだと思います」と告げられました。嬉しい言葉でした。
    (『キリスト教保育』2017年4月号p.22)

     神さまの愛の中で、子どもたち一人ひとりの人生にとって『陽だまり』のような幼稚園となることを願っています。

  • ザアカイのように(第8号 2018年9月5日より)

  •  夏休み期間が終わり、2学期が始まりました。お家で過ごした子どもたちは、園生活に慣れるまでもう少しかかりそうですが、ゆっくり、一人ひとりのペースに合わせてやっていきたいと願っています。
     ザアカイという一人のユダヤ人がいました。彼の仕事は徴税人です。ローマ帝国へ収める税金をユダヤの人々から集めます。ザアカイは周りの人たちから嫌われていました。同じユダヤ人なのに、支配者であるローマ帝国の手先となっていたからです。また、徴税人の多くが、ローマ帝国から請け負った以上の税を取り立てて私腹を肥やしていたからです。ザアカイはそんな徴税人たちのリーダーで、お金も権力も持っていました。にも関わらずザアカイは、心の底から満たされてはいませんでした。本当に信頼できる友人もいませんでした。
     そんなザアカイが、ある日イエスたち一行が近くを通ることを聞きつけ、すぐに出かけていきました。すでに多くの群衆が集っていて、背が低いザアカイには何も見えません。木に登って、一目イエスを見ようと願いました。何か自分を変えられるようなヒントがないかと懸命に求めたのです。
     すると…、イエスが木の上にいるザアカイを見つけ、「急いで降りて来なさい。今日はぜひあなたの家に泊まりたい」と呼びかけました。ザアカイはすぐに降りて来て、喜んでイエスを迎えました。そして今までの過ちを改め、自分の財産の半分を貧しい人たちに分かち合うことを約束します。
     神さまは目には見えません。しかし、イエスさまがザアカイに呼びかけたように、神さまは受け入れ、友として信頼し、みんなの心(家)に呼びかけています。ザアカイのように、その呼びかけに喜んで応えたとき、乾いていた心に愛の水があふれるのではないでしょうか。

  • 意欲も無気力も学習される(第7号 2018年7月18日より)

  •  「アクティブ・ラーニング」という言葉をよく耳にするようになりました。受け身の学びではなく、主体的・能動的な学びを指します。
     この春から、改定された幼稚園・保育園・こども園の3法令が施行されましたが、ここにも「主体的・対話的で深い学び」という言葉で表れてきます。しかし、気を付けなければいけないのは、「人はそもそもアクティブに学ぶのであり、実はそのようにしか、ごく自然には学べない」という点です。子どもたちに何か新しい「アクティブ・ラーニング」をさせるのではありません。むしろ、子どもたちが自発的に行っている「アクティブ・ラーニング」を、どう大人たちが邪魔をしないか、どう支えられるか、が重要なのです。
     ある論文(※)に「意欲も無気力も学習される」ことが指摘されていました。それによると、無気力は度重なる失敗などから「自分はいくらがんばってもうまくいかないんだ」という自己概念を、帰納的に「学んだ」ことによって起こされます。  C.ドゥエックという研究者が、この無力感の強い子どもたちを集めて、約1ヶ月のプログラムをしました。放課後に算数の問題を15セット解くことが求められ、毎日2~3セットは合格点に届かない失敗をします。失敗に対して教師は、あとどれだけ解けばよかったかを告げ、さらに失敗の原因は努力が足りなかった点にあり、気持ちを集中し努力すべきだと諭します。そして、気を取り直して努力した次のセットでは成功するという経験が繰り返されます。
     プログラムの背景には、無気力な子どもは失敗の原因を能力不足に求めがちなのに対し、意欲的な子どもは努力不足に求める傾向があるからです。
     プログラムの結果、子どもたちは粘り強さを身に付け、失敗に直面してもあきらめたり混乱したりせず果敢に挑み続けるようになり、成績も大きく改善されたそうです。
     こう書くと、努力を強いることがいいように見えてしまいますが、そうではありません。あくまで大切なのは、子どもたちの意欲をめいいっぱい引き出すことです。失敗をむしろ意欲を引き出すチャンスとしていきましょう。
    ※奈須正裕(2018)「資質・能力の育成とこれからの幼児教育(1)(2)」

  • 子育てしつつ、祈りつつ(第6号 2018年7月2日より)

  •  イエスさまはよく祈る人でもありました。
     社会の中で追いやられている人たちや、一人ぼっちの人たちの所へ出かけていき、共に神さまに生かされている喜びを分かち合い、共に食事をし、癒やし…。寝る間を惜しむほどでした。そういった積極的な活動と共に、ふと気づくと一人神さまの前で祈っていました。つまり、お祈りから愛の実践へ、愛の実践からお祈りへ、という循環をイエスさまは大切にしていたのです。
     さてイエスさまが祈っている姿を見て、「祈りを教えてください」と弟子たちが頼みました。そこで教えられたのが「主の祈り」と呼ばれる祈りです。以来2000年ずっとキリスト教会ではこの「主の祈り」を大切にして来ました。でも、「主の祈り」だけが祈りではありません。
     毎月先生たちと他園のキリスト教保育実践報告を読み合わせていますが、そこにこんな記事がありました。
    誰かが泣いているとき、保育者たちはお祈りすることにしていました。「Cくんがママがいいと泣いています。神さまそばにいてください」「DちゃんがEくんをたたいてしまいます。神さま、悲しいです。そばにいてください」お祈りをすると子どもたちが、祈った子どもの傍にいてくれてる姿もありました。
     この記事を読み、私たちが普段実践しているキリスト教保育が、祈りから生まれてきているものになっているかと考えさせられました。
     それぞれの家庭で、子どもたちに対してついつい感情的になったり、叱りつけたりしてしまうことがあるのではないでしょうか。我が家でも反省しているところです。そんな時にこそ、一緒に神さまに祈ることをやってみてはどうでしょうか。

  • 遊び込める園庭環境を目指して(第5号 2018年6月19日より)

  •  キリスト教保育連盟の施設長研修があり東京へ行った折、川崎頌和幼稚園へ寄りました。荒尾めぐみ幼稚園と同じように、教会と幼稚園が互いに支え合って歩んでいる幼稚園です。園長兼牧師は、私が神学校(牧師養成校)時代にお世話になったT先生です。川崎駅から徒歩8分の所で、いわゆる繁華街のすぐ隣りです。園に到着したら、早速T先生が園内を案内して下さいました。園児たちは、めぐみっこに負けず劣らず元気いっぱい。めいめい遊び込む姿がそこにありました。そして、決して広い土地ではないにも関わらず、とてもユニークな園庭がありました。
     「とりで」と呼ばれる大型遊具が園庭の真ん中に建ち、園舎2階ともトンネル(?)で繋がっています。さらに、園庭をぐるっと囲むようにして2階位の高さのある、立体ジャングルジム(?)があります。もちろん、子どもたちの体力に応じて遊べる場所が区切ってあり、安全性も確保されていました。
     もう一つ目に留まったのは、2m位の高さにあるスペース。よく見ると周りに階段や梯子がありません。最初はあったけれど、あえて取り外したとのこと。そこまで自力で登れるようになって初めて遊べるスペースとして造られているのです。子どもたちだけでなく、大人もワクワクするしかけが沢山ありました。
     これらは、職人さんと共に保護者の方たちが一緒に建て上げたそうです。幼稚園として「徹底的に遊び込める環境づくり」を目指していることがよく伝わってきました(川崎頌和幼稚園のHPに園内ストリートビューがありますので、ぜひご覧下さい)。
     めぐみ幼稚園の園庭環境も「遊び込める」ように、少しずつ整えていきたいと願っています。

  • 空の鳥を子どもたちと一緒に見る(第4号 2018年6月6日より)

  •  めぐみっこたちの中には、虫に興味を持っている子が一杯います。園庭でまず見つける虫は、だんご虫。砂遊び用のバケツに、だんご虫を集めては、「こんなにいたよ~!」と見せてくれます。その度に、小さな<いのち>の存在を身近に感じられる感性を、こどもたちは持っていることに気付かされます。
     金曜日にきりん組フェリー遠足に行ってきました。デッキの上で、海を見たり、景色を眺めていたら、色々な質問が飛んできました。少し答えるのが難しかった質問が、「あのプロペラみたいのは何?」でした。フェリーについている「船舶用風向風速計」のことでした。「風がどこからどれ位の強さで吹いているか分かるんだよ。帰りのフェリーでどうなっているか調べてみよう」とYくんに答えました。すると…、帰りのフェリーでYくんが、「先生あれ見て!」と風向風速計を指差しました。行きと同じ方向を向いていましたが、プロペラはずっとゆっくり回っていることを二人で確認しました。風向風速計のことなど私はすっかり忘れていたのですが、Yくんは覚えていて、好奇心を持ち続けていたことに驚きました。
     イエスさまが「空の鳥をよく見なさい」と言ったのは、私たちが目の前のことにばかり心を捕われ、神さまが一つ一つの<いのち>を、かけがえのないものとして創られ愛されていることを忘れてしまっているからです。どうも子どもたちの方が、よっぽど神さまが創られた自然や<いのち>を大切にしているようです。
     「空の鳥をよく見なさい」というイエスさまの言葉を思い出し、子どもたちと自然の中で共に時間を過ごすことを大切にしていきたいと願っています。

  • 『うさぎぐみとこぐまぐみ』かこさとし著(第3号 2018年5月25日より)

  •  絵本作家のかこさとしさんが、5月2日に召されました。『からすのパンやさん』や『だるまちゃんシリーズ』など、皆さんも一度は読んだことのある絵本を数々発表されました。
     我が家にも、かこさとし絵本が何冊かあるのですが、特に印象深いのは『うさぎぐみとこぐまぐみ』です。
     舞台はしんまち保育園。めぐみ幼稚園と同じうさぎぐみ(年中)とこぐまぐみ(年長)に通う子どもたちが、ダウン症のショウタちゃんとの出会いを通して、時にぶつかりつつも成長していく姿を描いています。何といっても、子どもたちの言葉が輝いています。ぜひ読み聞かせてあげて下さい。

  • 『おはよう』は人を元気にさせる(第3号 2018年5月25日より)

  •  キリスト教保育連盟の園長研修があり、そこでメイク・ア・ウィッシュ(MAW)理事の大野寿子さんのお話しを伺い、とても心打たれました。MAWは3歳以上18歳未満の難病と闘う子どもたちの夢をかなえるお手伝いをしているボランティア団体です。
     大野さんが執筆された『メイク・ア・ウィッシュ夢の実現が人生を変えた』という本の中に、陽子さんとの出会いが記されています。陽子さんは、ウェルドニッヒ・ホフマン病という難病ですが、憧れのJリーガーに会いたいという夢を17歳の時にMAWと一緒に叶えました。
     それから10年が経ち、陽子さんがある小学校に招かれ短大時代の話しをされました。車椅子で生活する陽子さんは、段差を上ることや教科書を開くにも友だちが助けてくれたそうです。
     「でもね、友だちたちは身の回りの困ってることだけしてくれたんじゃないんです。『あー、もう学校きついな、もう学校行けないかもしれないな』と思っていたときにも、いつも助けてくれていた。たった一言で、いつも元気をもらっていました。その一言は特別な言葉でもなくて、みんなが普段使っているように『おはよう』とか『こんにちは』とか、そういう一言でした。そのとき、『おはよう』っていう言葉は人を元気にさせる力をもっていたり、友だちをいっぱい増やせる力をもってる大切な一言だとはじめて気づいたんです」
     何か特別なことをすることではなく、相手の顔を見つめ、笑顔で心をこめて挨拶をすること。そのたった一言が、実は相手に元気をプレゼントすることがある…。そのことに気付かされました。
     お客さまたちからは、めぐみっこたちは「とても元気で人懐っこいですね」とよく言われます。しかし、挨拶はまだまだ苦手な子どもたちが多いように感じています。
     教職員も含めみんなで挨拶を大切にしていきたいと思っています。誰よりもまず神さまが、私たち一人一人に心をこめて挨拶を贈っているのですから。

  • ありがとうをお花に込めて(第2号 2018年5月9日より)

  •  花の日礼拝の中で、子どもたちに質問しました。
    「この花は最初は何だったと思う?」→「たね!」
    「種が土に蒔かれて、次はどうなったかな?」→「めが出たよ!」
    「その後は?」→「つぼみ!」「花になった!」
    「あれれ。その前に何か、こう、延びて、…、この緑色の何かが」→「はっぱ?」
     芽からいきなり花に飛んでしまいました。植物がどのように育っていくのか、その過程を想像することがまだ難しかった様子です。少し質問の流れが悪かったかなと反省しつつも、めぐみっこたちと一緒に、植物や野菜を育てる体験や自然に触れる体験を重ねることが出来たらと願っています。

     子どもたちと一緒に読んだ聖句は、「栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった」(マタイ6:29)でした。「王様のようにどんなに人間が着飾ったとしても、この花一輪の美しさにかなわない。神さまが雨や太陽の光を注いで下さっている。神さまはみんなと同じように愛を注いでくださっているんだよ」と話しました。
     昨日・今日と、消防署や慈眼苑などにお花をお届けしました。「ありがとう」の気持ちは心にしまっていたら伝わりません。言葉やお花に込める大切さを、めぐみっこたちと一緒に分かち合いたいと願っています。
     保護者の皆さんには、沢山のお花を献品していただき、また花かご作りを手伝っていただき、心より感謝を申し上げます。

  • 子どもたちはみんな神さまの子(第1号 2018年4月18日より)

  •  新学期が始まり、2週間になります。毎朝の礼拝で子どもたちが読む聖句も、少しずつ暗唱出来るようになって来ました。
     2000年前のユダヤ社会は、大人中心だったために、「子どもたち」は軽んじられていました。そんな「子どもたち」がイエスさまの所へ近付こうとすると、当たり前のように弟子たちは、叱って払いのけようとしました。その弟子たちに向かってイエスさまが怒って言いました。「子どもたちをわたしのところに来させなさい」。
     聖書ではさらに次のように続きます。「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」。そして、子どもを抱き上げ、手を置いて祝福しました。
     この出来事が伝えていることは沢山あります。①子どもたち一人一人に神さまの愛が注がれている。②軽んじられていい命なんかない。③神さまの愛は無条件。④子どものように真っ直ぐ神さまの愛を受け入れること。
     私たち大人は、ついつい子どもたちに様々な期待を抱きます。何かができること、目に見えて結果が出ることにのみ注目しがちです。しかし、神さまの視線はそこにはないようです。何かが出来ることよりも、何よりもまず一人一人の命をかけがえのないものとして「無条件」に愛しているからです。
     すると人の命の価値観が変わってきます。いま目の前にいる子どもたち一人一人は、神さまがかけがえのない子どもとして愛して下さっている。だから、もうすでに、生まれた時から、私たちにとってもかけがえのない存在なのです。
     新年度を始めていくにあたって、このことをまず胸に刻み、子どもたちと出会っていきたいと願っています。