深い痛みの共感を持った収穫感謝へ

福島から自主避難したあるご家族は、3・11によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故で、親子3人で暮らしていた福島の家から自主避難されました。住んでいた家はまだ建てて少ししか経っていなかったそうです。自主避難先では親子3人で過ごしましたが、お父さんは放射線量がまだ高い職場に戻るため、単身赴任になってしまいました。その子はお父さんの事が大好きです。お父さんもその子の事が大好きです。また、もともと住んでいた家の近くに住むおじいちゃんやおばあちゃんは、帰ってきてほしいと願っています。もちろん出来るならそうしたい。けれでも、放射線量の高い所に、家族みんなで引っ越すことは出来ません。そのことを巡って、お母さんとお父さんは何度もケンカになったそうです。気が付けば、両親がケンカをしている姿を見て、また、大好きなお父さんと離れ離れに生活する悲しさから、その子はストレスを溜めてしまっていたのです。お腹が痛くなって、学校に行けなくなって、はじめてそのストレスに気付かされたと、お母さんは泣きながらお話をされました…。

神さまが創造した豊かな自然は、人間が撒き散らした放射能汚染によって傷つけられました。いま放射能汚染によって苦しんでいるお百姓さんがいます。いま食べ物を心から安心していただくことが出来ない現実があります。

収穫感謝礼拝を通して、私たちはこの「感謝」を上辺だけのものとするのではなく、「深い痛みの共感を持った感謝」にしていくことが必要です。そのために、たとえ遠く離れていたとしても、被災地からの声に耳を傾けることを大切に続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.86)

田中一村、和光伝道所

奄美大島に到着した初日、田中一村記念美術館を訪問しました。絵画に疎い私は、「田中一村(1908~1977)」という名をその時、初めて知りました。南画(水墨画)の神童としていち早く活躍した一村でしたが、日本画へと画風を変えてからは、苦労と挫折が続き、その晩年に至るまで評価されることはなかったそうです。亡くなって10年が経ってからようやく再評価され「日本のゴーギャン」とも呼ばれています。

全くど素人の私にもはっきりと分かる絵の変化がありました。ハッとさせられ、魅入ったのです。それが、一村が50歳で1958年の暮れに奄美大島に移住してからの作品たちでした。

一村にとって奄美は、単なる異郷の地ではなく、自己の芸術を開花させるべき“約束の地”ではなかったか。(「田中一村考-「琉球弧」で開花した日本画-」金城美奈子)

「単なる異教の地」ではない、<いのち>の息吹に触れた瞬間でした。

国立療養所奄美和光園内にある和光伝道所も訪問しました。田中一村は、奄美和光園との出会いの中で、近くにアトリエを構えたそうです。

名瀬教会の青山実教師から、今は信徒もいなくなり、年数回の礼拝を守るのみと説明を受けながら伝道所に入ると、部屋に射し込む光、椅子の並び、講壇、その一つ一つが目に焼き付きました。<ここ>にある福音・恵み。確かに礼拝が守られていた息吹(プネウマ)。

あの息吹(プネウマ)と同じ神さまの聖霊(プネウマ)が、ここ荒尾教会においてますます強く吹くことを祈ります。(有明海のほとり便り no.85)

『苦海浄土』

『苦海浄土』(著・石牟礼道子)を読みました。

水俣病と向き合ったこの本の存在は、かなり前から知っていたにも関わらず、手に取ることはありませんでした。担いきれないような問いかけに出会うことを、どこか避けていたのです。しかし、礼拝にも数回出席されたSさんから、ぜひ読むように薦められ、また石牟礼道子さんが2月に亡くなられたことも相まって、新装版の文庫を購入しました。

とても驚きました。今まで読んだことのあるどんな作品とも違ったものでした。ルポタージュのようなものを予想していたのですが、実際はとても文学的・詩的で、その独特の表現一つ一つが光を放っていました。水俣病を様々角度で描いているのですが、それはもう魂にまで掘り下げていました。胎児性水俣病の杢太郎くんと暮らすおじいさんの場面にもそれが見られます。

あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆らうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまでも見入っとる。

まだお読みでない方は、ぜひ手にとって読んでみることをお薦めします。

(有明海のほとり便り no.84)

さわやかな風を呼び戻す

先日、敬愛する深澤牧師(佐世保)より、『踏みとどまる』と題された、F牧師の説教集をいただきました。実はこの本は、友人牧師たちの間で「幻の説教集」(?)と囁かれるほど入手困難(非売品)かつ評価が高く、ぜひ一読したいと願っていたものでした。深澤牧師は私が一度懇願したことを覚えていて下さったのです。

「あとがき」に、この説教集が出された経緯が記されています。

佐世保教会の長老であるAさんから、亡き妻・Kさんの記念として説教集を発行できないかとお申し出をいただいた。〈中略〉わたしを自由に語ることへと促してくれた、他ならぬKさんの言葉を記して終わりたい。〈中略〉「青年会の頃は、若くて、激しい情熱を持っていらした善野先生の御指導の下に、バルトのキリスト教倫理など、がんばって勉強しました。その頃植えつけられた反骨の精神と批判精神は、いまだに失ってはいないつもりです。その後、牧師先生が替わられるごとに、反抗しながらも、さらに新しいことを教えられてきましたが、その間、私が何時も求め続けてきたテーマは、まことの自由であったという気がします。〈中略〉けれども、最近は、そういう自由の雰囲気が失われつつあるようで、寂しい気がします。皆が謙虚な気持ちで原点に立ちかえって、イエスの教えに学び、もう一度、さわやかな風を呼びもどしたいものです」

Kさんだけでなく、2000年前の初代教会から始まり今日まで、信仰の先達たちは、まさにこのキリストによる自由なさわやかな風を吹かせ続けて下さったのです。その風を、私たちも呼び戻していきましょう。(有明海のほとり便り no.83)

教団総会で一つの「奇跡」が!

二年に一度の教団総会が開かれました。残念ながら最近の教団総会では、4:6の状態が続いていました。私はいつも「4」の立場で、地方や社会の痛みに立って教団を一歩でも開かれたものになることを願う議案は、悉く否決されました。今回も予想通り、「4」が提案・賛同した大切な議案は悉く否決され、とても悲しくなりました。

さて、教団総会の下に三役(議長・副議長・書記)そして常議委員が置かれますが、全数連記制を「6」の方たちが通した結果、全員が「6」の方たちで「4」の立場の方は入れないという歪な構成が続いていました。

しかし、何と今回の三役選挙で思わぬことが起こりました。教団副議長に、北海教区議長の久世そらち牧師(札幌北部)が、187票で当選されたのです!2位の方とはたったの12票差、過半数を取るには181票が必要だったので大接戦です。久世先生は私たちの母教会を牧会されている方で、何よりも地方教区や社会の痛みに立ちつつ発言してきました。さらに常議員選挙においても、九州教区議長の梅崎浩二牧師(大牟田正山町)が当選されました!

それでも「4」の立場は少数ですが、今までは三役・常議員会に入ることがそもそもありえませんでした。風向きが変わってきました。「6」の方たちの中に、痛みに気づき共に歩もうという方たちが生まれてきています。

日本社会の痛みと闇が深くなる中で、教団そして私たちの教会が少しでも神さまの栄光を表すことが出来るようになることを祈ります。

(有明海のほとり便り no.82)

喜界教会訪問を通して

9月に奄美地区を訪問して、特に深く心に刻まれたのが、喜界教会との出会いでした。朝4時40分発の福岡空港行きのバスに荒尾駅で乗り込み、喜界空港に到着したのは、9時45分。到着すると原淑美牧師が迎えに来てくださいました。空港から車で2分の所に教会はありました。行くと、教会堂脇で大工さんたちが作業中。台風で屋根が飛ばされた車庫を直してもらっているとのこと。台風の脅威が、荒尾よりもずっと身近にあるのです。お連れ合いのKくんとは10数年ぶりの再会でした。その後は、喜界教会のルーツや教会墓地、信徒訪問まで同行させていただきました。

奄美地区の他教会(名瀬・瀬戸内・徳之島)に比べても、喜界教会は特に古い歴史があります。その歴史の一端に触れ、ただただ深い感銘を受けました。礼拝は私を含めて5名でしたが、忘れることの出来ない恵みをいただきました。喜界島での宣教の課題の深さと共に、喜びに触れることが出来ました。

日本キリスト教団では、今週23日から25日かけて、教団総会が東京で行われます。二年に一度、全国の諸教会から400名を越える方たちが集まり協議する重要な場です。前回までは、裏方のお手伝いとして参加していました。

その中で、残念なことに、耳を疑うような意見もありました。いま振り返れば、出会いの問題だったのだと思わされます。実際に喜界教会に出会わなければ分からないことが沢山あるように。

どうか教団総会において、深い出会いが与えられ、神さまに喜ばれる教団となっていくことができますように祈りましょう。(有明海のほとり便り no.81)

SCFで与えられた神学生同士の出会い

昨夕は大牟田正山町教会にて、特別伝道礼拝・集会の講師として東京・吉祥寺教会から招かれた、吉岡光人牧師の歓迎夕食会があり、参加させていただきました。光人先生との出会いは、私が東京・町田にある農村伝道神学校に入学して、中野にあるSCF(学生キリスト教友愛会)の学生主事をさせていただいた時に遡ります。SCFでは「聖書を読む会」「夕食会」や夏春のワークキャンプなどを大学生や20代を中心に行っています。SCFの館長は光人先生のお連れ合いである吉岡康子牧師で、大変お世話になった恩師です。SCFを主事として日々リードするのは、野田沢牧師でした。この主事を補佐する役目として学生主事があり、様々な神学生がその役を担っていました。

残念ながら、当時(おそらく今も?)は、他の神学校の学生たちと出会う機会はほとんどありませんでした。また、この日本キリスト教団の中にも「強すぎる学閥」のようなものがあり、お互いが出会う前から様々な先入観や偏見を他の神学校に対して抱いてしまうことがあります。

しかしそういった中で、私はSCFを通して、特に東京神学大学の神学生たちと出会う機会を与えられました。もちろん説教のスタイルや神学的判断において意見を異なることもありました。にも関わらず、今では各地で牧会の現場に立っているみんなが、私にとっては本当に貴重な友人たちです。光人先生との再会を通して、そのことを再確認しました。

出身神学校を大切にしつつも、「学閥」ではなく、ただキリストにある(Solus Christus)仲間として歩むことを何よりも大切にしたいと願っています。

(有明海のほとり便り no.80)

小井沼眞樹子宣教師の働きを覚えて

「世界宣教の日」とは、特に海外で働く宣教師たちのことを祈りに覚える日です。11の国々に派遣された宣教師たちは、それぞれの歴史的文脈の中で、特に日本語を母語や第2言語とする方たちと福音を分かち合い、海外教会との協力関係を築いて下さっています。

小井沼眞樹子牧師(ブラジル・サルバドール)と最初に出会ったのは、私が神学校で学んでいた頃です。眞樹子先生は「解放の神学」の授業を聴講に来られており、一緒に机を並べました。眞樹子先生は、1996年から2006年までお連れ合いの國光牧師と共に、サンパウロ福音教会に奉仕されます。國光牧師が召されてからも、「ラテンアメリカキリスト教ネット」を日本で立ち上げ、2009年からはブラジル・オリンダにある教会へ6年間遣わされました。今はサルバドールにあるヴァレリオ・シルヴァ合同長老教会に遣わされています。遠く離れているのですが、数年に一度再会する機会があり、眞樹子先生が直面されている課題は大きいはずなのに、いつも笑顔とユーモアを絶やさない姿に励まされています。眞樹子先生が次のように記されています。

人材も設備も本当に足りない小さな群れですが、この地域に暮らす人々、特に若者や子どもたちにイエスの福音をことばと実践を通して宣教したいという熱い願いを持っています。人間性を育むために必要な教育的機会や設備が何もなく、犯罪が多発する周辺環境にあって、ここに「神の国」を建設することが神のみ心と信じているからです。…どうぞ必要な人材、資金、健康が備えられますようにお祈り下さい。

各地へと派遣されている宣教師たちを祈りに覚えましょう。

(有明海のほとり便り no.79)

大牟田正山町教会との子ども合同遠足

先週は大牟田正山町教会の子どもの教会メンバーたちと、「とても」楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

まず集合場所の諏訪公園の駐車場に行ってみると、何とサッカーの試合が行われていて、急遽沿岸道路を挟んで反対側へ。行ってみると当初予定していた場所よりも人も少なく、丁度よい芝生スペースがあり一安心。荒尾教会チームは子ども6人・大人7人、大牟田正山町教会チームは子ども2人・大人11人。教会から持っていった敷物では足りず、急遽みんなの敷物を持ち寄るなど、若干(?)のハプニングはありつつも、正山町教会子どもの教会の校長であるOさんにお祈りしていただき、まずはお弁当タイム。その間に、ガムテープとマジックを配って、それぞれが名札作り。終わった頃を見計らって、自己紹介を子どもたちにしてもらいました。0歳から中学生までの幅広い層が集まりました。

早速、楽しいゲームタイム。前日、色々なアイディアを持ち寄り厳選したゲームを、荒尾教会のBくんが手書きでプログラムを作ってくれました。どっこいしょゲーム→蛙跳び競争→お菓子食い競争→おやつタイム→カエルの歌輪唱→野球→ハンカチ落とし→アブラハムダンスと、盛り沢山でした。最初は初めて会う同士でちょっと恥ずかしがっていた子どもたちも、進む中でどんどん打ち解けていきました。初めて野球に挑戦する子たちも、バットに当たったボールが遠くに飛ぶのを見て、段々誇らしげな表情に。最後のアブラハムダンスでは、みんな笑顔だけどヘトヘトに。

こんな風に、大牟田正山町教会と荒尾教会が交流できたことに、心から感謝です。歴史的な一歩だったのではないでしょうか。何よりも子どもたちが喜んでくれました。ぜひ来年度も行えるといいですね。

(有明海のほとり便り no.78)

奄美で親友とまさかの再会

喜界島・奄美大島・加計呂麻島を、福島の親子短期保養プログラム下見のために訪問しました。私達の受け入れのために、奄美地区3名の教師がきめ細やかなコーディネートをして下さり、心より感謝でした。沢山のかけがえのない出会い・学びをいただきました。

日曜日夜に合流した九州教区の牧師たちの脇にふと気付くと、神奈川からYM牧師も来ていてビックリ!Mくんは年齢も同じ、神学校に入ったのも出たのも同じ、そして最初の任地が同じ東北教区という、とても繋がりが深い、「くされ縁」を感じる親友です。けれども、性格などはまったく違います。例えば神学校時代、彼はしばしば寮の部屋に引きこもっていました。その結果、多くの単位を落とすことになります。その反面、私はほとんど授業を休んだ記憶がありませんし、単位を落としたこともありませんでした。でも彼には私にはない「やわらかさ」やアンテナがあり、敬愛しています。そんな彼が、『福音と世界』10月号から、彼のアンテナを活かした連載『私はロックがわからない』を始めました。そこにこんな一文があります。

その姿は旧約聖書に出てくるヨブに重なる。なんで俺だけが苦しめられないといけないのか。〔中略〕じつは著者も最近「鬱」だと診断されて“毎日が憂鬱な悲劇”である。だが、ロックとは胸の痛みから生まれる音楽だ。このコラムでは、痛みを痛みとしてさらけ出す人たちを取り上げていきたい。

彼が自分自身の痛みをオープンに伝える姿に、「力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」(IIコリ12:9)というパウロの言葉が重なります。

(有明海のほとり便り no.77)