関東大震災と朝鮮人虐殺

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が起こり、10万人を越える死者が出ました。

大震災の混乱の中で、人々の中でデマが広まりました。「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒薬を投げ込んだ」、「強盗、強姦、殺人を犯している」と。これによって、「軍隊、警察だけでなく、在郷軍人会や、消防団、青年団が中心となって組織した民間人による自警団が各地で多数の朝鮮人を無差別に虐殺しました」。

一命を取り留めた朝鮮人青年たちは、学友会、YMCA、天道教青年会を中心として「罹災朝鮮同胞慰問団」を組織、虐殺の実態調査などの活動を行いました。妨害を受けて調査は困難を極めましたが、虐殺者総数約6661名という数字は、実際の犠牲者に近い貴重な記録と言われています。翌年YMCAが他団体と共同で開催した虐殺同胞追悼会は、その後も長く続けられ、今日における毎年9月1日の東京YMCAとの合同祈祷会に至っています。(在日韓国YMCA 2・8独立宣言記念資料室HPより)

災害が起こった際、問われるのは日常です。どのような関係性を普段つくってきたのか。それが排他的なものだったのか、多様性に基づいたものだったのか。残念ながら、東日本大震災の際や、熊本・大分地震の際にも、似たようなデマ・ヘイトスピーチが起こりました。まだまだ道半ばであることは確かです。

関東大震災で起きた朝鮮人虐殺の歴史を忘れることなく、多民族・多文化共生型社会を祈り求めていきましょう。

(有明海のほとり便り no.74)

水口教会でのカキデン

この暑い最中、牧師館で礼拝準備をしていると、ふと思い出す光景があります。

神学校では、大体2年目か3年目の夏休み期間中に、夏期伝道実習(通称カキデン)として全国の教会へと旅立ちます。私の実習先は、滋賀県にある水口(みなくち)教会、そして附帯する水口幼稚園でした。教会堂はヴォーリズ建築(1930年)で、登録有形文化財。歴史ある教会堂の中に、一段上がって和室(今では珍しい)の集会室があり、そこで5週間寝泊まりをしました。実習中に5回日曜日がありましたが、何と4回の礼拝を担当させていただきました(一般的にここまで任せることはありません;)。

主任のT牧師には、信徒の方からの相談や、教区の様々な委員会・行事にも、必ず私を同席させて下さいました。幼稚園でもキャンプや延長保育、雑用などをアルバイトとして下さり、金銭的にも支えて下さいました。2週間を過ぎたあたりで、T牧師は夏期休暇へ。その間は、一人で電話番から週報作成、畑仕事、礼拝準備、野宿者支援と充実した時を過ごしました。その頃、教会に送った手紙を見つけました。

子どもたちも非常に喜んで遊んでいます。そのような幼稚園の姿勢に、キリスト教保育のおもしろさを実感している日々です。

もう8年前のことですが、自分自身の一つのモデルとして水口教会・水口幼稚園があることに気付かされます。神さまは不思議な導きで荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園へと遣わせて下さいました。あのカキデンで感じた「おもしろさ」を今また噛み締めていきたいと願っています。

(有明海のほとり便り no.73)

「ていねいに生きる」という逆説

「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練さえも、両手でいただくこと。すすんで人のために自我を殺すことが平和といのちを生み出す。

渡辺和子シスターが著書『置かれた場所で咲きなさい』の中で言われた言葉です。渡辺シスターの深い福音理解がここには込められています。

同じようにイエスは言いました。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うがわたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

(マルコによる福音書8章34~35節)

これら2つの言葉に共通しているのは、「逆説」です。

出来るなら試練には直面したくないと誰もが願っています。試練に直面したとしても、出来るなら逃れたいと願っています。しかし、その試練=十字架を、あえて背負うこと、あえて両手でいただくことが、求められています。

誰もが、まずは自分自身のいのちを守ることを願っています。しかし、自分自身のためではなく、福音のため、かけがえのない<いのち>のために生きるとき、逆に救い=「平和といのち」があるのだと言うのです。

私達が週毎に教会に集い、礼拝を献げること。それはこの「逆説」を週の初めに胸に刻み、新しい命の中で歩みを始めることではないでしょうか。

(有明海のほとり便り no.72)

有明海のほとり便り no.71

太平洋戦争終戦から73年が経ちます。先週の平和聖日礼拝では教団戦争責任告白を皆さんと告白しました。私の心に響いた一文は次のものです。

わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。

私はキリスト者として「見張り」の使命を果たしているのだろうか?荒尾教会は?日本キリスト教団は?という問いが自分自身の中にあります。

特に特定秘密保護法、集団的自衛権、共謀罪などが「着々」と可決されていく姿に、戦前というよりもむしろ「戦争前夜」に日本は突入していると私は感じています。しかし同時に、「これまで何とか戦争にならなかったのだから、これからも大丈夫だろう」と「ボケ」ている自分自身にも気付かされます。

これまで人類が経験してきた戦争で、一般市民を巻き込まない戦争はありませんでした。ましてや兵士の<いのち>を一人も奪わない戦争もあり得ません。神さまが、一人ひとりをかけがえのない命として造られたにも関わらず、私たち人間は何と容易く命を奪ってしまうのでしょうか。

そして戦争は終わってからも続きます。朝鮮を植民地支配した結果、朝鮮半島から多くの方たちが日本に来ました。強制連行された方たちも多くいます。在日コリアンとして差別され、今もヘイトスピーチのように形を変えながら差別は続いています。広島・長崎で被曝した方たちの放射能による健康被害も続いています。「従軍慰安婦」として性被害を受けた女性たちの苦しみは今も癒やされることはありません。元兵士たちのトラウマが、今になって出てきているケースもあります。

「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という十戒を、神様からの大切なメッセージとして、もう一度胸に刻みましょう。

有明海のほとり便り no.71

神学校で旧約聖書学を教わった牧野信次牧師が、『共助』というキリスト教雑誌に、1945年8月2日午前0時過ぎに7歳で体験した富山大空襲のことを記されておられました。

寝就くと空襲警報のサイレンが鳴り、避難準備をしたのですが、米軍機が上空を通過したので、もう一度床に入り寝入ってしまいました。まもなく再びサイレンが鳴り、私たちは急いで防空壕に逃げ込みました。けれどもその時はもう周囲は火の海で、母は咄嗟の判断で子供達の手を握りながら走り出しました。〈中略〉恐怖の一夜が明けて、一面焼け野原となった異様な臭いのする市内に戻ってきましたが、そこには本当に目を背けざるを得ない、悲惨な状態で、焼死体がたくさん転がっていて、赤ちゃんを抱いたままの母親の黒焦げの死体も見ました。私たちが逃げ込んだ防空壕の中の人たちは全員窒息死で、我が家も跡形もなく消えていました。あの時の呆然とした喪失感は一生消えない人生の経験となりました。父は終戦の数か月後に無事帰ったのですが、二歳の妹は薬がなくて病死しました。このような経験は、私の人間としての核となるもので、戦争はどんな理由からも絶対にしてはならないと考える根拠となっています。

牧野先生の授業では、旧約聖書のことだけでなく、ユーモア混じりに沢山の体験談を聞かせていただきましたが、富山大空襲の話しは聞いたことがなく、驚きをもって読みました。今は80歳となる牧野先生の「平和への願い」を、教え子の一人として引き継いでいきたいと願っています。

有明海のほとり便り no.69

東京・青梅に「にじのいえ信愛荘」という日本基督教団隠退教職ホームがあります。教会に『青梅の里』と題する信愛荘五十年記念誌が届きました。パラパラと読んでいると、そこに池田貞子先生(89歳)による「主に在る家族と共に」と題のエッセーを見つけました。

池田先生は、私たち家族がお世話になった、いずみ愛泉教会(仙台市)の草創期の牧師です。いずみ愛泉教会は、仙台市北部にある将監団地(しょうげん)にキリスト教幼稚園を建てたことから始まっていきました。その意味では、この荒尾教会の歴史にも通じる所があります。先生は、礼拝堂でもあり、週日は保育室にもなる建物の一角に住みながら、自転車に乗って団地を走り回り、福音宣教に努めたのです。

教会員の方たちから池田先生のお話しを伺う度に驚いたことが一つありました。それは、先生が現在の教会台所部分を寝室としていたということです。広さとしては、荒尾教会台所に集会室の半分を加えた程度です。プライバシーもまったくありません。先生が独身だったからこそ出来たとは言え、まさに清貧生活でした。しかしその献身があったからこそ、愛泉教会の基が造られていったのです。

池田先生が愛泉教会を辞されたのが1993年3月末、私たちが教会に加えていただいたのが2012年4月でしたから、19年間も離れていました。もちろん面識もありません。にも関わらず、池田先生は教会に若い副牧師が与えられたことを喜んで下さり、毎年のように我が家へお米を贈って下さいました。

私たちの教会が多くの隠退教師によって基を造られていったことを覚え、「にじのいえ信愛荘」のことを教会としても支えていきたいと願っています。

有明海のほとり便り no.67

私は牧師になるために東京・町田市にある農村伝道神学校を卒業しました。とても小さな神学校で、一学年3~4人といったところでしょうか。小平先生や星先生の時代にはもっと学生数も多かったと伺っていますが、時の流れの中で教会員数が減り、いわゆる献身者も減ってきているのです。先々週開かれた同窓会研修会では、岩高澄先生(小平先生の前任)も参加さており、初めてゆっくりお話しを伺うことが出来ました。

この春、新しく校長に赴任されたロバート・ウィットマー先生も参加されました。ウィットマー先生は、カナダ合同教会からの宣教師で、1969年から来日され、長く北海道名寄にある道北クリスチャンセンターで、館長として働かれました。興味深いのは、農伝の創設者であるアルフレッド・ラッセル・ストーン宣教師も、同じカナダ合同教会からの宣教師だったという点です。ストーン宣教師は、1954年に起きた洞爺丸事故で召される直前に、救命胴衣を日本人の若者に与えたとして知られる方です。

カナダ合同教会も日本キリスト教団と同じように信徒数の減少という課題と向き合っていますが、何か一つの枠にぎゅっと固まるのではなく、多様性を尊重しつつ、「神様が示す新しい世界を求めるために共に歩き、また連帯を強め」(学報169号より)ながら歩まれています。そのような中で生まれたのが「信徒牧師制度」や「先住民族への謝罪」、「セクシャルマイノリティ理解」です。

教団の中でもユニーク(?)な農伝ですが、ウィットマー校長が加わったことによって、ますます教会論や宣教論などの神学が深まっていくでしょう。農伝と関係の深い荒尾教会としても、応援できればと願っています。

有明海のほとり便り no.66

日本キリスト教団には部落解放センターがあり、部落差別からの解放を祈り願って日々様々な活動をしています。センター主事は同窓のK牧師が担われ、先日の同窓会研修でも一緒でした。教団では7月第2主日を「部落解放祈りの日」とし、センターから毎年、祈りの日をどのように守ったらよいか参考資料としてパンフレットが送られてきます。

そこに岩手県・土沢教会の祈りの言葉が掲載されています。今日、子どもたちと祈るリタニーの裏面に全文を印刷しましたので、ぜひご一読下さい。差別とは一体何なのかを振り返る祈りになっています。

私の心は、いつも、誰かを見下そうとしてしまいます。 自分は、「普通に」生きている。 自分は「部落民」ではない。「障がい者」ではない。 自分は「外国人」ではない。「LGBT」ではない。「片親・貧困家庭」ではない。…私が差別していないと思い込んで、実は、差別していたあの人たちに、 私が与えた深い悲しみを、神様、慰めてください。決めつける心、汚い言葉、愛の足りない行いという私の罪をゆるしてください。

今もネット上では部落差別によるヘイトスピーチが後を絶ちません。形を変えて、部落差別が存在していること、また部落差別に限らず自分自身の中にある差別を直視出来るようにと祈りましょう

Buraku Heritageという団体があることを知りました。「『部落』を取り巻く様々な状況をよくしていくために、この『わたし』を軸にそれぞれが発信していく場」(HP)を作っています。メンバーはみな私と同年輩の方たちです。解放への新しい取り組みが生まれてきていることを学びました。

有明海のほとり便り no.65

月二回発行されている機関誌『教団新報』が届き開いてみると、「伝道のともしび」というコラムに、東北教区・いずみ愛泉教会のF牧師が寄稿していました。

また、教区に設置された被災者支援センター・エマオに教団派遣専従として佐藤真史教師が赴任されました。佐藤教師はいずみ愛泉教会副牧師として加わってくれました。そのこともあって、教会は小さいですが、さまざまな形でこれらの教区の二つの働きに積極的に加わり、課題に向き合いながら関わり続けることが許されました。そしてたくさんの方々との出会いが与えられ、感謝です。

いずみ愛泉教会は私達家族が5年間お世話になった教会で、F先生・お連れ合いのTさんはじめ皆さんから、九州へ離れてからも変わらず祈り続けて下さっています。

被災者支援センター・エマオに教団から派遣が決まった際、二つの選択肢がありました。教務教師としてエマオの働きに専念し、教会にはあくまで協力者として関わること。もう一つは担任教師として、教会の働きにも責任を担うことです。私は迷わず担任教師の道を選びました。エマオと教会を働きの両輪としたかったからです。そして快く受け入れて下さったのが、F先生が牧会するいずみ愛泉教会でした。

実際には、フルタイム(以上?)でエマオの働きに携わり、教会では子どもの礼拝と時々の礼拝説教奉仕位しか出来なかったのですが、教会運営について、宣教について沢山学ぶことが出来ました。心から感謝しています。

有明海のほとり便り no.64

先々週ですが、キリスト教保育連盟の新任施設長研修があり東京へ行ってきました。一泊二日の決して長くはない時間でしたが、充実した内容でした。

二日目、4つのグループに分かれて分団を持ちました。そこには、私のように牧師と園長を兼務している先生たちと、現場の保育者から園長あるいは副園長になった先生たちの両方がいました。

牧師兼園長の働き方・関わり方が話題に挙がりました。まったく園の実務には関わらず、行政や保護者対応などすべてを副園長や主任の先生に任せる牧師兼園長にとまどいを覚えている先生もいました。あるいは、幼稚園と牧会の両立に悩む先生(私も含む?!)もいました。その中で心の中に残ったのは、福岡の幼稚園に仕える牧師兼園長の先生が、ある時お連れ合いに、「御言葉に立つのがあなたの仕事でしょ」と言われ、原点に引き戻されたと。

ただし、「御言葉に立つ」ことは決して簡単なことではありません。というよりも、「立つ」なんということは、この欠け多く、罪深い存在には到底無理なことです。しかし、真剣に祈り求めたいと願っています。

荒尾教会とめぐみ幼稚園は、言うまでもなく不可分の関係です。牧師が園長を兼務し、教会員のJさんが職員として働き、Sさんが理事として支えています。金曜日にあった誕生会のカレーを私のミスで急遽朝作り直す必要が出た時も、3名の教会員が駆けつけて下さり、とても感謝でした。他にも様々な形で、祈りが実を結んでいます。

教会と幼稚園が一つのキリストの体として、これからも共に歩んでいきたいと願っています。                M.S.