石橋議長との再会

月曜日に開かれた教区の研修会に石橋秀雄牧師(教団議長)が招かれました。3・11が起こった際、石橋先生はすぐに教団救援対策本部を立ち上げ、精力的に被災された方たちのために働かれました。私が責任を担っていた被災者支援センター・エマオにも、必ず年に何度か来て下さいました。印象的だったのは、毎年ご自身の夏休みを使って、エマオへボランティアに来て下さったことです。他の本部委員の方たちが訪問に来られることはあっても、一緒にワークに入って下さることはほとんどありませんでした。石橋先生が来られる際は、いつもエマオのスタッフを労うために食事へ連れて行って下さり、私自身もお世話になりました。その石橋先生と久しぶりの再会を二人とも(?)喜びました。

ふと届いたばかりの『教団新報』を見ると、石橋先生が巻頭メッセージを書かれていました。そこに、鈴木隆太さんという鍵盤楽器演奏者が召されたことを紹介しています。毎年、石橋先生が園長を務める越谷幼稚園でコンサートをされる繋がりで、新日本フィルのメンバーと一緒に鈴木さんは被災地に来て下さり、演奏会を開いて下さいました。素晴らしい音楽家でした。

鈴木さんの「その曲に感動し、この曲を子どもたちが聞いてくれないはずがない」との確信から演奏する姿を思い浮かべながら、説教者としての姿が問われる思いがした。私たち自身が御言葉に感動し、御言葉を語ることを何よりも喜びとし、この御言葉が聞かれないはずがないとの確信をもって語る者であるかどうか。

この問いを、私自身も大切にしたいと願っています。 (有明海のほとり便り no.94)

いずみ愛泉教会、登米教会

教会で購読している『信徒の友2月号』が届きました。「日毎の糧」というコーナーがあり、聖書日課に解説があり、さらにその日に選ばれた教会からの祈りの課題が掲載されています。日本キリスト教団、在日大韓基督教会所属の教会を、教区毎に南から北へ順にピックアップしているそうです。2月号は宮城県と福島県の教会でした。私が以前所属していた東北教区の教会です。前任地のいずみ愛泉教会もありました。そこに掲載されたほとんどの教会・牧師に出会っているので、とても懐かしく各教会の祈りの課題を読みました。説教奉仕・集会・委員会のため訪問した教会、被災者支援センター・エマオのために沢山の協力をして下さった教会がありました。

来週予定されている祈祷会においても、これらの教会のことを皆さんと共に覚えて祈りたいと思います。ここでは二つの教会の祈り課題を紹介します。

いずみ愛泉教会 「年々災害が多発しています。その度に世界中で繰り返される「核実験」の影響を考えます。地球が悲鳴を上げているのでは、と。一日も早い全世界の核廃絶を。」

登米教会 「主日礼拝を大切にする教会であるように。求道者が神に導かれて洗礼を受けられるように。登米幼稚園が神の栄光を現す幼児教育を継続して行けるように。幼稚園児、教職員の心身が支えられるように。」

登米教会では毎年2回位、説教奉仕をさせていただきました。兼牧されている友川牧師の苦労を少しでも分かち合うために、午後2時からの礼拝に、車で約1時間かけて向かいました。小さな幼稚園と教会を守り続ける信徒家族の姿に、励まされました。 (有明海のほとり便り no.93)

聖書・神学を学ぶ楽しさ

少し前の話しになりますが、11月26日~27日と教区の教師研修会がホテルセキア(南関)であり、参加しました。青野太潮先生(西南学院大学名誉教授)を招いての学びのひと時でした。青野先生は新約聖書学者であり、原始キリスト教の中でも特にパウロの十字架の神学に関する研究で著名な方です。2016年には『パウロ 十字架の使徒』(岩波新書)を発表されています。特に贖罪論に関して、非常に刺激的な問題提起をされており、議論もその点に集中しつつ膨らんでいきました。

神学校時代にその著作を数冊手に入れていたので、本棚の片隅にいつも置かれてあった先生の著作を引っ張り出し(?)、研修に持っていきました。先生は、完全原稿のレジュメを用意して下さり、見事にその主張をまとめて下さっていました。先生の論点を自分なりに理解し消化するために、私は講演を聴きつつ、聖書や持ってきた本を駆使して、大切な点に線を引き…、分団に分かれてからも全体協議でも、牧師たちから先生への質問が尽きることがなく、私も質問をさせていただき…。ふと気がつくと、知的興奮状態でした。そして、「あぁこの感覚、何か懐かしい」と思ったのです。それは、特に神学校時代に感じていた「聖書・神学を学ぶ楽しさ」でした。 仙台での5年間も含めると、牧会の現場に遣わされて7年目がもうすぐ終わり、8年目に突入しようとしています。日々与えられた課題で精一杯になり、この「楽しさ」をどこかに置いていきがちです。中々一人では難しいので、信徒の皆さんや、近くの牧師たちと読書会のようなものを開ければなぁと願っています。 (有明海のほとり便り no.92)

2019年も福音の灯火を

2019年が始まりました。

「さぁいよいよ明日から幼稚園が始まるなぁ~」と思っていた矢先に震度4の揺れがありました。皆さんの所は大丈夫だったでしょうか。今回は行いませんでしたが、今後さらに大きい地震や災害があった際は、教会から各信徒の所へ安否確認を行っていきたいと思っています。

全国から私や絆奈さんの携帯に心配の連絡が続きました。北海道、宮城、茨城、東京、静岡、兵庫、福岡…。こちらはまったく被害がなかったので、何だか恐縮しつつ、けれども久しぶりの声に逆に励まされました。

年末に、神学校時代の先輩であり、とても親しくしていたGさんより数年ぶりの電話がありました。不器用な所があり、神学校を卒業後も中々上手くいきませんでした。卒業時に合格を求められる補教師試験も一発では合格できず(ここ10年位かなり試験自体の難易度も上がっています)。一年後、私が試験を受けた時も一緒に受けたのですが、体調を崩して試験に遅刻…。一度ある教会の伝道師として働いたのですが、そこを辞めてからは、ずっと無任所教師でした。そのGさんから電話があり、この1月から赴任先が決まったとのこと。Gさんの自宅からも通える範囲にある小さな伝道所です。ただし、会員は2名で、建物の家賃支払いにも困るような財政状況です。もちろん謝儀もほとんど出ません。無い無い尽くしですが、Gさんの声には落胆ではなく不思議と召命感から来る力がありました。 Gさんが遣わされた伝道所、荒尾教会、全国の教会・伝道所・付帯施設に灯された福音の灯火が、2019年も光り輝き続けることを祈ります。 (有明海のほとり便り no.91)

「はい、ここにおります」

2018年の一年間の歩みはどうだったでしょうか。大切なことは、にも関わらず私たちを愛し(赦し)受けとめ導かれる神さまに応え続けていくことです。思想家の内田樹さんが出エジプト記の記事を通して、次のように記しています。

「すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。『なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行って、この大いなる光景を見ることにしよう』主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい、ここにおります。』と答えた。」(出エジプト記3:2-4)

「はい、ここにおります」(Me voici)というのが主の呼びかけ(vocation)に対する人間からの応答(reponse)である。人間が主の呼びかけに対して応答したことで一神教は生まれた。応答することができたのは、自分は呼びかけに遅れたと知ったからである。応答をなしうる者=責任者(le responsable)とは、主の呼びかけに応答したもののことである。

皆さんにとってこの「焼け尽きない柴」とは、「大いなる光景」とは何でしょうか。私は最近、イエス・キリストが指し示す神の国・愛のことではないかと、思うようになりました。私たちは「御国(神の国)が来ますように」と主の祈りの中で祈ります。神が実現される・されつつある国(光景)を見たいと切に祈ります。その祈りの中で、私たちは神さまからの呼びかけを聞きます。 この一年、「はい、ここにおります」と応えられた時もあれば、その呼びかけに気づきもしなかった時もありました。しかし、私たちキリスト者は、少なくとも一度はこの呼びかけに応えたことのある者たちの集いです。精一杯の応答を、これからもなしていきましょう。 (有明海のほとり便り no.90)

辺野古の痛み

 12月14日、日本政府は米軍基地建設工事のために、沖縄・辺野古で、土砂投入を始めました。私はこれまでに3回、辺野古を訪問させていただきました。とても美しい海岸でした。同時に、ヤマトが沖縄に押し付けている米軍基地という痛みを強く見せつけられた場所でした。昨日、独立学園高校出身のWさんが辺野古へ駆けつけレポートをアップしてくれました。

午前11時、土砂投入のシャッターを切った瞬間、涙が流れた。いろんな思いが混ざった涙。嫌い、大嫌い。日本政府なんか大嫌いだ。勝手に琉球を支配して、アメリカとの戦いに沖縄を捨て石にして、また日本に戻したかと思えば、米軍基地はそのまま、墜落事故・事件が起きても知らん顔・・・そして、自分たちの害の無い場所に危険なものを作り、そこに住んでいる人達の大切なものを奪っていく。〈中略〉日本政府だけじゃない。無関心な人も、同じだ。 自分のことじゃないから、知らない場所だから、害は無いから・・・。 そう言って、関心を持たない人。その無関心が誰かを苦しめている。一番嫌いなのは、自分だ。土砂が投入されるのを、ただ観てるだけの無力の自分が、自分のカメラに押さえることしか出来ない、声を出すことさえ出来ず、ただ泣いてるだけの自分が・・・。〈中略〉海保と反対行動のカヌー隊。おかしい。ぶつからなくていい人達が、ぶつかっている。海保の人だって、こんなことをするために海保になったわけじゃない。仕事のためにいるんだ。「ここにいる人たち、反対行動の人たちも、海保も工事の人も、誰も悪くない。」ってこと。

アドベントのこの時、「み国(神の国)が来ますように」という祈りをさらに深めていきましょう。 (有明海のほとり便り no.89)

サーロー節子さんの言葉

ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のサーロー節子さんがカナダ・トロントより来日され、政府関係者などに核廃絶を求め積極的な活動をされています。その合間に、母校の広島女学院(キリスト教学校)を訪問し講演されました。サーロー節子さんは、私たちと同じ日本キリスト教団の広島流川教会で受洗し、今は関係の深いカナダ合同教会に通うキリスト者でもあります。

丁寧な講演録が数葉の写真と共にHPにアップされていました。一枚の写真に、講演するサーロー節子さんの後ろに広げられた黄色の布が写っていました。そこには、広島に落とされた原爆によって殺された広島女学院の先生・生徒たち351名の名前が、同窓会の方たちによって書かれています。

女学院のクラスメイト達は雑魚場町(現国泰寺町)で作業中にほぼ全滅しました。死の淵で、米原先生と円陣を組み、讃美歌『主よみもとに近づかん』を歌いながら次々と息絶えたと知りました。女学院では351人の命が失われ、その後も生徒は病や死の不安と隣り合わせで生きてきたのです。一発の原爆は人間の尊厳も、にぎやかな家庭の営みも、一瞬でずたずたにしてしまいました。それが私にとって怒りと行動の原点となりました。〈中略〉

私は13歳の少女であった時に被爆しました。くすぶるがれきを押しのけながら光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。皆様に、広島の廃墟の中で私が聞いた言葉を繰り返したいと思います。「あきらめるな。動き続けろ。押し続けろ。光が見えるだろう。そこへ向かって這っていけ」

(有明海のほとり便り no.88)

『内村鑑三 悲しみの使徒』

若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書,2018年1月発行)を読みました。内村鑑三(1861-1930)が日本のキリスト教に及ぼした影響はとても深く、召されてから90年近く経った今でも、毎年のように内村に関する論文や書籍が発行されていますが、そこに一冊の良著が加わりました。8月に北海道にいる友人牧師がFacebookで紹介しており、早速購入したのです。

内村鑑三の弟子の一人に鈴木弼美(すけよし)がいます。東京帝国大(現・東大)時代に内村と出会い、聖書研究会に加わりました。卒業後は同大学の理学部助手となりまが、4年後その職を辞し内村から派遣され、伝道のために向かった先が山形県小国という、小さな農村でした。そこで鈴木が創ったのが、基督教独立学園という小さな全寮制の高校でした。私はそこの49期生です。入学したときには、鈴木初代校長は召されていたので、直接会うことはありませんでした。しかし、内村のキリスト教信仰の影響ははっきりとそこに刻まれていました。と言っても、内村の信仰やキリスト教思想を把握するにはあまりに広く、高校生の私には断片的な学びしか出来ませんでした。

若松英輔さんは批評家・随筆家であり、カトリック信者でもあります。回心、入信、死者、非戦、再臨、訣別、宇宙の7つのトピックから内村に迫っており、私の中での内村像が深められました。特に印象的だったのは、内村の影響を受けた人物として、徳富蘆花・志賀直哉・柳宗悦・石牟礼道子・神谷美恵子などが挙げられていた点です。キリスト教の枠を超えて、内村は深い影響を与えたのです。一読をお薦めします!(有明海のほとり便り no.87)

深い痛みの共感を持った収穫感謝へ

福島から自主避難したあるご家族は、3・11によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故で、親子3人で暮らしていた福島の家から自主避難されました。住んでいた家はまだ建てて少ししか経っていなかったそうです。自主避難先では親子3人で過ごしましたが、お父さんは放射線量がまだ高い職場に戻るため、単身赴任になってしまいました。その子はお父さんの事が大好きです。お父さんもその子の事が大好きです。また、もともと住んでいた家の近くに住むおじいちゃんやおばあちゃんは、帰ってきてほしいと願っています。もちろん出来るならそうしたい。けれでも、放射線量の高い所に、家族みんなで引っ越すことは出来ません。そのことを巡って、お母さんとお父さんは何度もケンカになったそうです。気が付けば、両親がケンカをしている姿を見て、また、大好きなお父さんと離れ離れに生活する悲しさから、その子はストレスを溜めてしまっていたのです。お腹が痛くなって、学校に行けなくなって、はじめてそのストレスに気付かされたと、お母さんは泣きながらお話をされました…。

神さまが創造した豊かな自然は、人間が撒き散らした放射能汚染によって傷つけられました。いま放射能汚染によって苦しんでいるお百姓さんがいます。いま食べ物を心から安心していただくことが出来ない現実があります。

収穫感謝礼拝を通して、私たちはこの「感謝」を上辺だけのものとするのではなく、「深い痛みの共感を持った感謝」にしていくことが必要です。そのために、たとえ遠く離れていたとしても、被災地からの声に耳を傾けることを大切に続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.86)

田中一村、和光伝道所

奄美大島に到着した初日、田中一村記念美術館を訪問しました。絵画に疎い私は、「田中一村(1908~1977)」という名をその時、初めて知りました。南画(水墨画)の神童としていち早く活躍した一村でしたが、日本画へと画風を変えてからは、苦労と挫折が続き、その晩年に至るまで評価されることはなかったそうです。亡くなって10年が経ってからようやく再評価され「日本のゴーギャン」とも呼ばれています。

全くど素人の私にもはっきりと分かる絵の変化がありました。ハッとさせられ、魅入ったのです。それが、一村が50歳で1958年の暮れに奄美大島に移住してからの作品たちでした。

一村にとって奄美は、単なる異郷の地ではなく、自己の芸術を開花させるべき“約束の地”ではなかったか。(「田中一村考-「琉球弧」で開花した日本画-」金城美奈子)

「単なる異教の地」ではない、<いのち>の息吹に触れた瞬間でした。

国立療養所奄美和光園内にある和光伝道所も訪問しました。田中一村は、奄美和光園との出会いの中で、近くにアトリエを構えたそうです。

名瀬教会の青山実教師から、今は信徒もいなくなり、年数回の礼拝を守るのみと説明を受けながら伝道所に入ると、部屋に射し込む光、椅子の並び、講壇、その一つ一つが目に焼き付きました。<ここ>にある福音・恵み。確かに礼拝が守られていた息吹(プネウマ)。

あの息吹(プネウマ)と同じ神さまの聖霊(プネウマ)が、ここ荒尾教会においてますます強く吹くことを祈ります。(有明海のほとり便り no.85)