大牟田正山町教会との子ども合同遠足

先週は大牟田正山町教会の子どもの教会メンバーたちと、「とても」楽しいひと時を過ごすことが出来ました。

まず集合場所の諏訪公園の駐車場に行ってみると、何とサッカーの試合が行われていて、急遽沿岸道路を挟んで反対側へ。行ってみると当初予定していた場所よりも人も少なく、丁度よい芝生スペースがあり一安心。荒尾教会チームは子ども6人・大人7人、大牟田正山町教会チームは子ども2人・大人11人。教会から持っていった敷物では足りず、急遽みんなの敷物を持ち寄るなど、若干(?)のハプニングはありつつも、正山町教会子どもの教会の校長であるOさんにお祈りしていただき、まずはお弁当タイム。その間に、ガムテープとマジックを配って、それぞれが名札作り。終わった頃を見計らって、自己紹介を子どもたちにしてもらいました。0歳から中学生までの幅広い層が集まりました。

早速、楽しいゲームタイム。前日、色々なアイディアを持ち寄り厳選したゲームを、荒尾教会のBくんが手書きでプログラムを作ってくれました。どっこいしょゲーム→蛙跳び競争→お菓子食い競争→おやつタイム→カエルの歌輪唱→野球→ハンカチ落とし→アブラハムダンスと、盛り沢山でした。最初は初めて会う同士でちょっと恥ずかしがっていた子どもたちも、進む中でどんどん打ち解けていきました。初めて野球に挑戦する子たちも、バットに当たったボールが遠くに飛ぶのを見て、段々誇らしげな表情に。最後のアブラハムダンスでは、みんな笑顔だけどヘトヘトに。

こんな風に、大牟田正山町教会と荒尾教会が交流できたことに、心から感謝です。歴史的な一歩だったのではないでしょうか。何よりも子どもたちが喜んでくれました。ぜひ来年度も行えるといいですね。

(有明海のほとり便り no.78)

奄美で親友とまさかの再会

喜界島・奄美大島・加計呂麻島を、福島の親子短期保養プログラム下見のために訪問しました。私達の受け入れのために、奄美地区3名の教師がきめ細やかなコーディネートをして下さり、心より感謝でした。沢山のかけがえのない出会い・学びをいただきました。

日曜日夜に合流した九州教区の牧師たちの脇にふと気付くと、神奈川からYM牧師も来ていてビックリ!Mくんは年齢も同じ、神学校に入ったのも出たのも同じ、そして最初の任地が同じ東北教区という、とても繋がりが深い、「くされ縁」を感じる親友です。けれども、性格などはまったく違います。例えば神学校時代、彼はしばしば寮の部屋に引きこもっていました。その結果、多くの単位を落とすことになります。その反面、私はほとんど授業を休んだ記憶がありませんし、単位を落としたこともありませんでした。でも彼には私にはない「やわらかさ」やアンテナがあり、敬愛しています。そんな彼が、『福音と世界』10月号から、彼のアンテナを活かした連載『私はロックがわからない』を始めました。そこにこんな一文があります。

その姿は旧約聖書に出てくるヨブに重なる。なんで俺だけが苦しめられないといけないのか。〔中略〕じつは著者も最近「鬱」だと診断されて“毎日が憂鬱な悲劇”である。だが、ロックとは胸の痛みから生まれる音楽だ。このコラムでは、痛みを痛みとしてさらけ出す人たちを取り上げていきたい。

彼が自分自身の痛みをオープンに伝える姿に、「力は弱さの中でこそ十分発揮されるのだ」(IIコリ12:9)というパウロの言葉が重なります。

(有明海のほとり便り no.77)

奄美での保養プログラムに向けて

8月2~7日、北海教区による「心と体をリラックス第12回親子短期保養プログラムin北海道」が行われ、東京電力福島第一原子力発電所事故による放射能汚染の影響を逃れ、6家族21名(子ども12名)が参加したことが、『教団新報』に載っていました。絆奈さんや私の母教会にもなる札幌北部教会の久世そらち牧師がそこに次のように記しています。

毎回大切にしているのが、親たちの「分かちあい」の時間。放射能の不安を抱えての日常生活の苦しさ悩み悲しみを打ち明け語り合う。家族の葛藤、周囲との軋轢、経済的困難、行政への不信、そして子どもたちへのせつない負い目と不安・・・。少なからぬ親たちが「こんな心の内を語るのは初めて」と涙する

プログラムの終わりに、「不安なく食べ、飲んだ」、「草地で転がる子どもの姿がうれしい」、「畑で泥まみれになって感激」といった感想と共に、「赤の他人にどうしてこんなに親切にしてくるのか」との感謝の言葉も。主のねぎらいを聞く瞬間だ。

このプログラムの奄美版を、2019年3月に九州教区東日本大震災対策小委員会で企画しています。今回の奄美出張はその準備のためです。と言っても、私たちだけでは何も出来ません。奄美地区に受け入れていただき、東北教区放射能問題支援対策室「いずみ」に募集・コーディネートしていただき、初めて実施出来ます。このような繋がりが与えられていることに心から感謝。

何よりも原発事故で傷ついた子どもたち・ご家族が、少しでもホッと出来る保養プログラムになりますようにお祈り下さい。

(有明海のほとり便り no.76)

2つの自然災害

災害が続き、東日本大震災の時のことを思い出し、胸が痛みます。

台風21号によって、関西・北陸に大きな被害が出ました。同じ日本キリスト教団のT教会幼稚園では、9月4日(火)午後3時10分頃、突風で園舎2階の屋根がはがれました。休園にしていたため、子どもはもちろん大人にも誰も怪我はなかったそうです。

HPを見ると、荒尾めぐみ幼稚園と同じように来年度の園児募集が始まっています。幼稚園の歩みが守られることを切に祈ります。

9月6日(木)3時8分頃、震度7におよぶ北海道胆振地方地震が起こりました。死者23名、行方不明5名の人的被害が出ています。

停電などライフラインの回復にはまだ時間がかかりそうですが、教団の教会や幼稚園における被害は今の所出ていない様子です。北海教区幹事の小西陽祐牧師が発災以来精力的に被害の大きかった地域を問安し、報告を上げて下さっています。厚真町への訪問報告の中に、こんな言葉が記されていました。

土砂崩れで埋まった家の方にお話を聞き、許可を得て写真を撮らせてもらいました。その方が一言「人生がまったく狂ってしまったよ」と言われた言葉が耳から離れません。

適切な助けと支えとが、被災されたすべての方たちに届きますように。

(有明海のほとり便り no.75)

関東大震災と朝鮮人虐殺

1923年9月1日午前11時58分、関東大震災が起こり、10万人を越える死者が出ました。

大震災の混乱の中で、人々の中でデマが広まりました。「朝鮮人が暴動を起こして井戸に毒薬を投げ込んだ」、「強盗、強姦、殺人を犯している」と。これによって、「軍隊、警察だけでなく、在郷軍人会や、消防団、青年団が中心となって組織した民間人による自警団が各地で多数の朝鮮人を無差別に虐殺しました」。

一命を取り留めた朝鮮人青年たちは、学友会、YMCA、天道教青年会を中心として「罹災朝鮮同胞慰問団」を組織、虐殺の実態調査などの活動を行いました。妨害を受けて調査は困難を極めましたが、虐殺者総数約6661名という数字は、実際の犠牲者に近い貴重な記録と言われています。翌年YMCAが他団体と共同で開催した虐殺同胞追悼会は、その後も長く続けられ、今日における毎年9月1日の東京YMCAとの合同祈祷会に至っています。(在日韓国YMCA 2・8独立宣言記念資料室HPより)

災害が起こった際、問われるのは日常です。どのような関係性を普段つくってきたのか。それが排他的なものだったのか、多様性に基づいたものだったのか。残念ながら、東日本大震災の際や、熊本・大分地震の際にも、似たようなデマ・ヘイトスピーチが起こりました。まだまだ道半ばであることは確かです。

関東大震災で起きた朝鮮人虐殺の歴史を忘れることなく、多民族・多文化共生型社会を祈り求めていきましょう。

(有明海のほとり便り no.74)

水口教会でのカキデン

この暑い最中、牧師館で礼拝準備をしていると、ふと思い出す光景があります。

神学校では、大体2年目か3年目の夏休み期間中に、夏期伝道実習(通称カキデン)として全国の教会へと旅立ちます。私の実習先は、滋賀県にある水口(みなくち)教会、そして附帯する水口幼稚園でした。教会堂はヴォーリズ建築(1930年)で、登録有形文化財。歴史ある教会堂の中に、一段上がって和室(今では珍しい)の集会室があり、そこで5週間寝泊まりをしました。実習中に5回日曜日がありましたが、何と4回の礼拝を担当させていただきました(一般的にここまで任せることはありません;)。

主任のT牧師には、信徒の方からの相談や、教区の様々な委員会・行事にも、必ず私を同席させて下さいました。幼稚園でもキャンプや延長保育、雑用などをアルバイトとして下さり、金銭的にも支えて下さいました。2週間を過ぎたあたりで、T牧師は夏期休暇へ。その間は、一人で電話番から週報作成、畑仕事、礼拝準備、野宿者支援と充実した時を過ごしました。その頃、教会に送った手紙を見つけました。

子どもたちも非常に喜んで遊んでいます。そのような幼稚園の姿勢に、キリスト教保育のおもしろさを実感している日々です。

もう8年前のことですが、自分自身の一つのモデルとして水口教会・水口幼稚園があることに気付かされます。神さまは不思議な導きで荒尾教会・荒尾めぐみ幼稚園へと遣わせて下さいました。あのカキデンで感じた「おもしろさ」を今また噛み締めていきたいと願っています。

(有明海のほとり便り no.73)

「ていねいに生きる」という逆説

「ていねいに生きる」とは、自分に与えられた試練さえも、両手でいただくこと。すすんで人のために自我を殺すことが平和といのちを生み出す。

渡辺和子シスターが著書『置かれた場所で咲きなさい』の中で言われた言葉です。渡辺シスターの深い福音理解がここには込められています。

同じようにイエスは言いました。

わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うがわたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。

(マルコによる福音書8章34~35節)

これら2つの言葉に共通しているのは、「逆説」です。

出来るなら試練には直面したくないと誰もが願っています。試練に直面したとしても、出来るなら逃れたいと願っています。しかし、その試練=十字架を、あえて背負うこと、あえて両手でいただくことが、求められています。

誰もが、まずは自分自身のいのちを守ることを願っています。しかし、自分自身のためではなく、福音のため、かけがえのない<いのち>のために生きるとき、逆に救い=「平和といのち」があるのだと言うのです。

私達が週毎に教会に集い、礼拝を献げること。それはこの「逆説」を週の初めに胸に刻み、新しい命の中で歩みを始めることではないでしょうか。

(有明海のほとり便り no.72)

有明海のほとり便り no.71

太平洋戦争終戦から73年が経ちます。先週の平和聖日礼拝では教団戦争責任告白を皆さんと告白しました。私の心に響いた一文は次のものです。

わたくしどもは「見張り」の使命をないがしろにいたしました。

私はキリスト者として「見張り」の使命を果たしているのだろうか?荒尾教会は?日本キリスト教団は?という問いが自分自身の中にあります。

特に特定秘密保護法、集団的自衛権、共謀罪などが「着々」と可決されていく姿に、戦前というよりもむしろ「戦争前夜」に日本は突入していると私は感じています。しかし同時に、「これまで何とか戦争にならなかったのだから、これからも大丈夫だろう」と「ボケ」ている自分自身にも気付かされます。

これまで人類が経験してきた戦争で、一般市民を巻き込まない戦争はありませんでした。ましてや兵士の<いのち>を一人も奪わない戦争もあり得ません。神さまが、一人ひとりをかけがえのない命として造られたにも関わらず、私たち人間は何と容易く命を奪ってしまうのでしょうか。

そして戦争は終わってからも続きます。朝鮮を植民地支配した結果、朝鮮半島から多くの方たちが日本に来ました。強制連行された方たちも多くいます。在日コリアンとして差別され、今もヘイトスピーチのように形を変えながら差別は続いています。広島・長崎で被曝した方たちの放射能による健康被害も続いています。「従軍慰安婦」として性被害を受けた女性たちの苦しみは今も癒やされることはありません。元兵士たちのトラウマが、今になって出てきているケースもあります。

「殺してはならない」(出エジプト記20章13節)という十戒を、神様からの大切なメッセージとして、もう一度胸に刻みましょう。

有明海のほとり便り no.71

神学校で旧約聖書学を教わった牧野信次牧師が、『共助』というキリスト教雑誌に、1945年8月2日午前0時過ぎに7歳で体験した富山大空襲のことを記されておられました。

寝就くと空襲警報のサイレンが鳴り、避難準備をしたのですが、米軍機が上空を通過したので、もう一度床に入り寝入ってしまいました。まもなく再びサイレンが鳴り、私たちは急いで防空壕に逃げ込みました。けれどもその時はもう周囲は火の海で、母は咄嗟の判断で子供達の手を握りながら走り出しました。〈中略〉恐怖の一夜が明けて、一面焼け野原となった異様な臭いのする市内に戻ってきましたが、そこには本当に目を背けざるを得ない、悲惨な状態で、焼死体がたくさん転がっていて、赤ちゃんを抱いたままの母親の黒焦げの死体も見ました。私たちが逃げ込んだ防空壕の中の人たちは全員窒息死で、我が家も跡形もなく消えていました。あの時の呆然とした喪失感は一生消えない人生の経験となりました。父は終戦の数か月後に無事帰ったのですが、二歳の妹は薬がなくて病死しました。このような経験は、私の人間としての核となるもので、戦争はどんな理由からも絶対にしてはならないと考える根拠となっています。

牧野先生の授業では、旧約聖書のことだけでなく、ユーモア混じりに沢山の体験談を聞かせていただきましたが、富山大空襲の話しは聞いたことがなく、驚きをもって読みました。今は80歳となる牧野先生の「平和への願い」を、教え子の一人として引き継いでいきたいと願っています。

有明海のほとり便り no.69

東京・青梅に「にじのいえ信愛荘」という日本基督教団隠退教職ホームがあります。教会に『青梅の里』と題する信愛荘五十年記念誌が届きました。パラパラと読んでいると、そこに池田貞子先生(89歳)による「主に在る家族と共に」と題のエッセーを見つけました。

池田先生は、私たち家族がお世話になった、いずみ愛泉教会(仙台市)の草創期の牧師です。いずみ愛泉教会は、仙台市北部にある将監団地(しょうげん)にキリスト教幼稚園を建てたことから始まっていきました。その意味では、この荒尾教会の歴史にも通じる所があります。先生は、礼拝堂でもあり、週日は保育室にもなる建物の一角に住みながら、自転車に乗って団地を走り回り、福音宣教に努めたのです。

教会員の方たちから池田先生のお話しを伺う度に驚いたことが一つありました。それは、先生が現在の教会台所部分を寝室としていたということです。広さとしては、荒尾教会台所に集会室の半分を加えた程度です。プライバシーもまったくありません。先生が独身だったからこそ出来たとは言え、まさに清貧生活でした。しかしその献身があったからこそ、愛泉教会の基が造られていったのです。

池田先生が愛泉教会を辞されたのが1993年3月末、私たちが教会に加えていただいたのが2012年4月でしたから、19年間も離れていました。もちろん面識もありません。にも関わらず、池田先生は教会に若い副牧師が与えられたことを喜んで下さり、毎年のように我が家へお米を贈って下さいました。

私たちの教会が多くの隠退教師によって基を造られていったことを覚え、「にじのいえ信愛荘」のことを教会としても支えていきたいと願っています。