原淑美教師との再会

 よもや原淑美さんとこんな形で再会するとは。

 初めての出会いがいつだったか・・・、そうあれは20年近く前、東京・中野にある学生キリスト教友愛会(SCF)だった。その出会いから私も大学などで東京を離れ、会うことはなかった。かなり経ってから、神学校で学ぶため東京に戻った。すると、当時原教師が牧会されていた花小金井教会へ、年に一度ある神学校日礼拝に招いてもらった。本当に久しぶりの再会だった。そして、とても嬉しかった。いわゆる出身/関係神学校に縛られることなく、原教師が出会いを大切にしつつ、そして私のことを覚えていて下さっていたことを知ったから。

 それからまたしばらく会うことはなかった。けれども、時々会う本多香織教師(瀬戸内教会)から、原教師が奄美へ移住されたこと、そこから喜界教会へ赴任されたことを伺って、とても嬉しかった。あぁ大切な友が頑張っている、と。

 2年前、同じ九州教区にある荒尾教会に私も赴任することになった。九州に行ったら会いたい人リストを頭の中で勝手に作っていたが、原教師はそのトップ5に入っていた。けれども、教区総会などで顔を合わせても、お互い時間がなく中々ゆっくり話す時はなかった。

 そんな中で、9月15日・16日の喜界教会訪問が実現した。礼拝は私を含めて5名。地域の行事などが重なり欠席された方も多かったそうだが、人数は関係なかった。出席者の一人ひとりが、真剣に、真摯に、朗らかに、御言葉に耳を傾けている姿が目に焼き付いている。御言葉を、祝福を何とかお伝えする役で行った自分が、逆に出会いを通して神さまの祝福をいただいた。この出会いを、もっともっと深めていきたい。(『喜界教会通信』第11号より抜粋) (有明海のほとり便り no.104)

「僕は人間じゃないんです」

 RADWIMPS(ラッドウィンプス)というロックバンドが歌う『棒人間』。園内研修で戸田奈都子牧師(川内教会)が紹介してくれた曲です。「フランケンシュタインの恋」というドラマ主題歌に使われたそうですが、まったくテレビを観ない生活を送っている私は、初めて聴く曲で衝撃を受けました。そこに込められているのは、「僕は人間じゃないんです」というメッセージです。

ねぇ 僕は人間じゃないんです ほんとにごめんなさい

そっくりにできてるもんで よく間違われるのです

僕は人間じゃないんです じゃあ何かと聞かれましても

それはそれで皆目 見当もつかないのです

見た目が人間なもんで 皆人並みに相手してくれます

僕も期待に答えたくて 日々努力を惜しまないのです

 この曲をみんなで聞いたあと、「この歌にたくさんの人たちが共感している。同じようになりたくても出来ないと感じている人たちがいる。発達障がいと共に生きる子どもたちも同じように感じているのでは」と奈都子先生は話されました。

 ぜひ一度お聞き下さい。 イエス・キリストは、この同調圧力の強い日本社会の中で、「僕は人間じゃない」と感じている人と共に歩んでいます。 (有明海のほとり便り no.103)

神さまの宝石

 第67回荒尾めぐみ幼稚園卒園式が無事終了しました。13名の卒園児が羽ばたいていきました。一人直前に気管支炎に罹った子がいたので、とても心配していたのですが、無事に出席することが出来ました。

 私にとっては試行錯誤(七転八倒?)の2年間でしたが、13名はいつも変わらずに、私の顔を見ると笑顔で飛びついて来てくれました。子どもたちに支えられていたのは自分だったことに気付かされます。そんな13名の卒園に園長として牧師として立ち会うことが出来て、感無量でした。頭では分かっています。どの子もいつかは必ず園から旅立っていくことを。けれども、この別れに慣れることはなさそうです。

 卒園礼拝において、保護者の方たちへ『置かれた場所で咲きなさい』というエッセーを書かれた、渡辺和子シスターの言葉を紹介しました。長く女子大学教えられたシスターが、学生たちに向かって必ず伝えていた言葉です。

「あなたは宝石なのです。だから自分の体も、心も、いい加減にしないで、大切に生きてください。」

 子どもたち一人一人は神さまがそれぞれのご家庭に下さった、かけがえのない宝石・プレゼントです。その大切な<いのち>を、荒尾めぐみ幼稚園に預けていただき、共に関わることが出来たことを、神さまに心から感謝していますと、伝えました。実はもう一つ付け加えたかったことがあります。保護者の方たちお一人お一人も神さまの宝石なのです、と。

 卒園していった13名、そしてご家庭のこれからの歩みが守られますように。

『カール・バルト 未来学としての神学』

 神学を学ぶ時に、避けて通ることの出来ない重要科目に、「組織神学」があります。組織神学は教義学・倫理学・弁証学を含み、哲学とも深い関連があります。

 「何だか難しそうな科目だなぁ」と感じられたかと思いますが、事実、とても難しい授業でした。下田洋一牧師(中野桃園教会)が、毎回分厚い資料を用意して下さり、懇切丁寧に説明をして下さるのですが、下田先生の癒し系の声に、ふと気付けば周りのクラスメートたちはみんな船を漕いで…。今振り返れば、授業の多くが、神学者バルトが展開した「教義学」についてだったと気付かされます。バルトは一文一文が長文で、かつドイツ語からの翻訳だったので、そもそも日本語で読み深めることに限界があったようにも思います。

 最近そんな難解なバルト神学の入門書として良著が出ました。福嶋揚著『カール・バルト 未来学としての神学』です。約200頁の中に、端的に分かりやすく、バルト神学をまとめています。神学生時代にこの本に出会っていたら、バルトへの印象が変わっていたはずです。

 この本を読み改めて気付かされたのは、『教会教義学』をはじめ膨大な著作を残したバルトでしたが、単に書斎にひきこもる執筆家ではなかったという点です。むしろナチスドイツや東西冷戦などと聖書のメッセージを対峙させ神学した(doing theology)のです。バルト神学をさらに学んでいきたいと願っています。

私たちの信仰がリアルなものならば、その信仰の告白は私たちの生活の中に食い込まなければならない。(p.98)

しかし、意気消沈しちゃだめだ!絶対に!<主が支配しておられる>のだからね。(p.191)

(有明海のほとり便り no.101)

エマオで悩み、祈り、出会い

 2012年春、右も左も分からない状態で、けれども神さまからの呼びかけと信じ、被災者支援センター・エマオへと向かいました。与えられた役割は「教団派遣専従者」。初めて聞く言葉でした。「コーディネーター」として動けばよいのだと気付くにも、しばらくかかりました。どこにもロールモデルを見出すことは出来ず、まさに手探りでした。特に最初の1年は自身の力不足を痛感し、「自分は相応しくないのでは」という不安を常に抱えていました。いまも私でよかったのか、よく分かりません。

 しかしいつからか、そのことであまり悩まなくなっていきます。もちろん他の悩みは尽きませんでしたが…。いま思えば、自分がエマオの一人として、友として、被災された方たちに受け入れてもらっていることを感じるようになってからでした。エマオに来てくれるワーカーたちや、教会関係の方たちへ、私を呼んでくれた大学・高校そして教会などへ、拙い言葉でも「被災地のいま」を伝えなければと願うようになってからでした。そこに到るまで、じっくりと構え、支え祈ってくれた輪があったことに気付かされます。

 被災地で、エマオで必要だったこと、それは「孤立」ではなく「友」でした。スタッフに必要だったこと、それは「バーンアウト」ではなく「適度な休み」でした。「被災者支援」は初期の緊急支援だけでなく、忘れられがちな中長期支援も肝心であり、そこにこそ「スローワーク」の真価が発揮されるのです。

 この3月末で被災者支援センター・エマオは閉じます。この8年間の内、5年間に関わることが出来、多くの出会いが与えられました。私や家族にとって、まさに神さまが与えて下さった、かけがえのない5年間でした。 (有明海のほとり便り no.100)

2019年度に向けて~幼稚園~

幼稚園では次年度に向けて職員会議を持ち、次のようなことを分かち合いました。

◯教会幼稚園として  宮崎貞子先生は一人のキリスト者として、1946年荒尾で小さな家庭集会を立ち上げました。祈りに祈り、教会堂を建て、そして荒尾めぐみ幼稚園を始めていきました。以来、荒尾教会の牧師が幼稚園の責任を持つというスタイルで繋げてきました。それは、荒尾教会の大切な宣教の業の一つがこの荒尾めぐみ幼稚園だからです。荒尾教会と荒尾めぐみ幼稚園はキリストの一つの体であり、切り離すことは出来ません。荒尾教会員の方たちは、日々幼稚園のことを覚えてお祈りしています。

◯社会変化 2019年度は10月から保育料無償化が始まります。それに伴い、共働き家庭はますます増える見込です。特に荒尾市では0・1歳児の待機児童が発生している状況があり、しばらくはどこも未満児クラスは一杯となるでしょう。けれども、荒尾市も少子高齢化して来ていることは、皆さんも実感している所です。つまり、どこかの時点で、需要と供給は逆転し定員割れが起きていきます。日本全体では2040年には幼稚園が半分になるという予測もあります。保育園・こども園に関しても、保育に関する量的ニーズは確実に減っていきます。その中で、「質が悪くとも園児囲い込みに長けた園」として生き延びるのではなく、「小規模でも良質なキリスト教保育の認定こども園」として信頼を積み重ねていくことが、何よりも大切なことだろうと考えています。

荒尾教会幼稚園としての荒尾めぐみ幼稚園をこれからも祈り、共に歩んでいきましょう。 (有明海のほとり便り no.99)

説教を聴く恵み

 荒尾に来てもうまもなく2年が経とうとしています。仙台にいた時は、副牧師という立場でしたので、いずみ愛泉教会では月1回位の説教奉仕、他の無牧教会や小さな教会での奉仕を月数回行くというペースでした。荒尾に来てからは、毎週この荒尾教会で説教奉仕をさせていただいています。

 「神ならぬ罪深き人間が神の言葉を語る」ことが説教では求められます。その重みに打ちひしがれつつ、夜なべをして充血した目で説教台へ向かうこともしばしば(しょっちゅう?)あります。もちろん、それを遥かに越える恵みをいただきつつ。

 この2年、地区や教区の集会で「説教を聴く」ことは、いつも新鮮かつ刺激的な時でした。それが2週間続けて(!)、この荒尾教会で、「説教を聴く恵み」が与えられました。金性済先生のメッセージも、Shall Gapongle先生のメッセージも、どれも心に深く染み入るものでした。そして牧師として原点(「わたしは何を、どのように、誰に向けて語るのか」)に立ち返る導きでもありました。こんな贅沢な時が与えられたことに神様に感謝しています。ぜひ2019年度も(2週連続とはいきませんが…)、外部講師をお招きし福音の分かち合いに預かりたいと願っています。

それゆえ「神の言」としての説教を語る説教者の責任は重く、人間の内に働きかける聖霊の導きに依拠せざるをえない。説教者自身が神の救済の恵みに与りつつ、説教の委託の使命に生きることによってこそ、初めて救済の恵みについて聴衆に語ることが可能とされるのである。(関田寛雄「説教」『岩波キリスト教辞典』より)

(有明海のほとり便り no.98)

宣教する教会

遠くフィリピンよりShall Gapongle牧師が荒尾教会そして九州教区のために来て下さいました。荒尾教会72年間の歩みの中で、フィリピン合同教会の牧師の説教を聴く機会はおそらく初めてではないでしょうか。神さまに、そしてGapongle先生を派遣して下さった教会に、ご家族に、心からの感謝を捧げます。

先生は先住民族の出身です。礼拝出席約20名の教会に仕えつつ、同時に山岳地帯の他の先住民族の村々を粘り強く訪問し、信頼関係を構築し、そして村人たちと教会を立ち上げています。先生が九州教区の牧師向けに作成した資料の中で次のように言われています。

神学校を卒業したての多くの牧師は、より良い給料と便利さを求めて、大きな町や大規模な教会に赴任することを望みます。でも私の牧会姿勢はそれとは異なり、いつも小さな教会に赴任してきました。〈中略〉牧師が宣教活動をなしていくために十分に支えていける教会ではありません。しかし小さな教会であっても、集う信徒が心から信仰に生き、忠実に主に献げるなら、牧師の生活を支えることも、宣教と福音伝道のための活動を行うこともできるでしょう。〈中略〉宣教は止まることなく続けられなければなりません。〈中略〉宣教しない教会は既に死んでいるのです。宣教をしない教会は、存在しない教会のようなものではないでしょうか。

優しさがにじみ出ている先生の所には、言葉が通じなくとも子どもたちがすぐに集まってきました。そんなGapongle先生から発せられるこの鋭い指針を、まさに一つの小さな荒尾教会として受け止め、私たちの宣教のあり方を振り返り、造り上げていく時としましょう。 (有明海のほとり便り no.97)

2/17 フィリピン合同教会 ガポンリ牧師を招きます

九州教区はフィリピン合同教会のシャル・ガポンリ先生をお招きし、九州各地の教会や付帯施設で、フィリピンでの宣教について分かち合っていただいています。17日(日)は荒尾教会で礼拝メッセージをして下さいます。ぜひご出席下さい!

日時 2019年2月17日(日) 午前10時半より11時40分頃まで

  • 聖書  マタイによる福音書5章14~16節
  • メッセージ 「あなたがたは世の光である。」
  • Shall Gapongle(シャル・ガポンリ)牧師(フィリピン合同教会)

※こどもメッセージが礼拝前半にあります。こどもからご高齢の方まで、どなたでもどうぞ。

ヘイトスピーチという差別

在日コリアンの方たちに対するヘイトスピーチが止まりません。

2018年1月22日、大分県大分市に住む男性が、当時15歳の中学生に向けてこんな言葉を自身のブログに投稿しました。

〈日本国内に『生息』している在日という悪性外来寄生生物種の一派〉〈チョーセン・ヒトモドキ〉〈見た目も中身ももろ醜いチョーセン人!!!〉

 凄まじい差別がここにあります。例えば九州にルーツを持つ人たちが「見た目も中身ももろ醜いキュウシュウ人!!」と言われたら、どうでしょうか。しかも、それが自分の中学生の子どもに向けられて言われたら、どうでしょうか。身体が引き裂かられるような感覚にならないでしょうか。

 しかし、この男性に対して川崎簡易裁判所が出したのは科料9000円の略式命令でした。現在の法律ではこのようなヘイトスピーチ/ヘイトクライムを想定していないのです。中学生の子は、「国がルールをつくって、もう誰も自分のようなつらい想いをすることなく、安心してインターネットを利用できる環境が整うことを願っています」とコメントを発表しています。

「在日コリアンの問題」ではなく、「日本人・日本社会の問題」です。そして、日本に生きるキリスト者が取り組むべき問題ではないでしょうか。 今日お招きした金性済先生は、私が20歳前後に通った在日大韓・川崎教会の牧師でした。在日コリアンの人権回復のために尽力する先生の姿、川崎教会に集まる赤ちゃんからご高齢の方たちまでの姿、特に青年たちの姿が、私のキリスト者としての歩みを方向づけて下さったと感じています。今日の皆さんの出会いが、そのような出会いとなりますように願っています。 (有明海のほとり便り no.96)