説教を聴く恵み

 荒尾に来てもうまもなく2年が経とうとしています。仙台にいた時は、副牧師という立場でしたので、いずみ愛泉教会では月1回位の説教奉仕、他の無牧教会や小さな教会での奉仕を月数回行くというペースでした。荒尾に来てからは、毎週この荒尾教会で説教奉仕をさせていただいています。

 「神ならぬ罪深き人間が神の言葉を語る」ことが説教では求められます。その重みに打ちひしがれつつ、夜なべをして充血した目で説教台へ向かうこともしばしば(しょっちゅう?)あります。もちろん、それを遥かに越える恵みをいただきつつ。

 この2年、地区や教区の集会で「説教を聴く」ことは、いつも新鮮かつ刺激的な時でした。それが2週間続けて(!)、この荒尾教会で、「説教を聴く恵み」が与えられました。金性済先生のメッセージも、Shall Gapongle先生のメッセージも、どれも心に深く染み入るものでした。そして牧師として原点(「わたしは何を、どのように、誰に向けて語るのか」)に立ち返る導きでもありました。こんな贅沢な時が与えられたことに神様に感謝しています。ぜひ2019年度も(2週連続とはいきませんが…)、外部講師をお招きし福音の分かち合いに預かりたいと願っています。

それゆえ「神の言」としての説教を語る説教者の責任は重く、人間の内に働きかける聖霊の導きに依拠せざるをえない。説教者自身が神の救済の恵みに与りつつ、説教の委託の使命に生きることによってこそ、初めて救済の恵みについて聴衆に語ることが可能とされるのである。(関田寛雄「説教」『岩波キリスト教辞典』より)

(有明海のほとり便り no.98)

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