2019年も福音の灯火を

2019年が始まりました。

「さぁいよいよ明日から幼稚園が始まるなぁ~」と思っていた矢先に震度4の揺れがありました。皆さんの所は大丈夫だったでしょうか。今回は行いませんでしたが、今後さらに大きい地震や災害があった際は、教会から各信徒の所へ安否確認を行っていきたいと思っています。

全国から私や絆奈さんの携帯に心配の連絡が続きました。北海道、宮城、茨城、東京、静岡、兵庫、福岡…。こちらはまったく被害がなかったので、何だか恐縮しつつ、けれども久しぶりの声に逆に励まされました。

年末に、神学校時代の先輩であり、とても親しくしていたGさんより数年ぶりの電話がありました。不器用な所があり、神学校を卒業後も中々上手くいきませんでした。卒業時に合格を求められる補教師試験も一発では合格できず(ここ10年位かなり試験自体の難易度も上がっています)。一年後、私が試験を受けた時も一緒に受けたのですが、体調を崩して試験に遅刻…。一度ある教会の伝道師として働いたのですが、そこを辞めてからは、ずっと無任所教師でした。そのGさんから電話があり、この1月から赴任先が決まったとのこと。Gさんの自宅からも通える範囲にある小さな伝道所です。ただし、会員は2名で、建物の家賃支払いにも困るような財政状況です。もちろん謝儀もほとんど出ません。無い無い尽くしですが、Gさんの声には落胆ではなく不思議と召命感から来る力がありました。 Gさんが遣わされた伝道所、荒尾教会、全国の教会・伝道所・付帯施設に灯された福音の灯火が、2019年も光り輝き続けることを祈ります。 (有明海のほとり便り no.91)

「はい、ここにおります」

2018年の一年間の歩みはどうだったでしょうか。大切なことは、にも関わらず私たちを愛し(赦し)受けとめ導かれる神さまに応え続けていくことです。思想家の内田樹さんが出エジプト記の記事を通して、次のように記しています。

「すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。モーセは言った。『なぜ柴が燃えていないのか、あちらへ行って、この大いなる光景を見ることにしよう』主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、『モーセ、モーセ』と仰せられた。彼は『はい、ここにおります。』と答えた。」(出エジプト記3:2-4)

「はい、ここにおります」(Me voici)というのが主の呼びかけ(vocation)に対する人間からの応答(reponse)である。人間が主の呼びかけに対して応答したことで一神教は生まれた。応答することができたのは、自分は呼びかけに遅れたと知ったからである。応答をなしうる者=責任者(le responsable)とは、主の呼びかけに応答したもののことである。

皆さんにとってこの「焼け尽きない柴」とは、「大いなる光景」とは何でしょうか。私は最近、イエス・キリストが指し示す神の国・愛のことではないかと、思うようになりました。私たちは「御国(神の国)が来ますように」と主の祈りの中で祈ります。神が実現される・されつつある国(光景)を見たいと切に祈ります。その祈りの中で、私たちは神さまからの呼びかけを聞きます。 この一年、「はい、ここにおります」と応えられた時もあれば、その呼びかけに気づきもしなかった時もありました。しかし、私たちキリスト者は、少なくとも一度はこの呼びかけに応えたことのある者たちの集いです。精一杯の応答を、これからもなしていきましょう。 (有明海のほとり便り no.90)

辺野古の痛み

 12月14日、日本政府は米軍基地建設工事のために、沖縄・辺野古で、土砂投入を始めました。私はこれまでに3回、辺野古を訪問させていただきました。とても美しい海岸でした。同時に、ヤマトが沖縄に押し付けている米軍基地という痛みを強く見せつけられた場所でした。昨日、独立学園高校出身のWさんが辺野古へ駆けつけレポートをアップしてくれました。

午前11時、土砂投入のシャッターを切った瞬間、涙が流れた。いろんな思いが混ざった涙。嫌い、大嫌い。日本政府なんか大嫌いだ。勝手に琉球を支配して、アメリカとの戦いに沖縄を捨て石にして、また日本に戻したかと思えば、米軍基地はそのまま、墜落事故・事件が起きても知らん顔・・・そして、自分たちの害の無い場所に危険なものを作り、そこに住んでいる人達の大切なものを奪っていく。〈中略〉日本政府だけじゃない。無関心な人も、同じだ。 自分のことじゃないから、知らない場所だから、害は無いから・・・。 そう言って、関心を持たない人。その無関心が誰かを苦しめている。一番嫌いなのは、自分だ。土砂が投入されるのを、ただ観てるだけの無力の自分が、自分のカメラに押さえることしか出来ない、声を出すことさえ出来ず、ただ泣いてるだけの自分が・・・。〈中略〉海保と反対行動のカヌー隊。おかしい。ぶつからなくていい人達が、ぶつかっている。海保の人だって、こんなことをするために海保になったわけじゃない。仕事のためにいるんだ。「ここにいる人たち、反対行動の人たちも、海保も工事の人も、誰も悪くない。」ってこと。

アドベントのこの時、「み国(神の国)が来ますように」という祈りをさらに深めていきましょう。 (有明海のほとり便り no.89)

サーロー節子さんの言葉

ノーベル平和賞を受賞したICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のサーロー節子さんがカナダ・トロントより来日され、政府関係者などに核廃絶を求め積極的な活動をされています。その合間に、母校の広島女学院(キリスト教学校)を訪問し講演されました。サーロー節子さんは、私たちと同じ日本キリスト教団の広島流川教会で受洗し、今は関係の深いカナダ合同教会に通うキリスト者でもあります。

丁寧な講演録が数葉の写真と共にHPにアップされていました。一枚の写真に、講演するサーロー節子さんの後ろに広げられた黄色の布が写っていました。そこには、広島に落とされた原爆によって殺された広島女学院の先生・生徒たち351名の名前が、同窓会の方たちによって書かれています。

女学院のクラスメイト達は雑魚場町(現国泰寺町)で作業中にほぼ全滅しました。死の淵で、米原先生と円陣を組み、讃美歌『主よみもとに近づかん』を歌いながら次々と息絶えたと知りました。女学院では351人の命が失われ、その後も生徒は病や死の不安と隣り合わせで生きてきたのです。一発の原爆は人間の尊厳も、にぎやかな家庭の営みも、一瞬でずたずたにしてしまいました。それが私にとって怒りと行動の原点となりました。〈中略〉

私は13歳の少女であった時に被爆しました。くすぶるがれきを押しのけながら光に向かって動き続けました。そして生き残りました。今、私たちの光は核兵器禁止条約です。皆様に、広島の廃墟の中で私が聞いた言葉を繰り返したいと思います。「あきらめるな。動き続けろ。押し続けろ。光が見えるだろう。そこへ向かって這っていけ」

(有明海のほとり便り no.88)

『内村鑑三 悲しみの使徒』

若松英輔著『内村鑑三 悲しみの使徒』(岩波新書,2018年1月発行)を読みました。内村鑑三(1861-1930)が日本のキリスト教に及ぼした影響はとても深く、召されてから90年近く経った今でも、毎年のように内村に関する論文や書籍が発行されていますが、そこに一冊の良著が加わりました。8月に北海道にいる友人牧師がFacebookで紹介しており、早速購入したのです。

内村鑑三の弟子の一人に鈴木弼美(すけよし)がいます。東京帝国大(現・東大)時代に内村と出会い、聖書研究会に加わりました。卒業後は同大学の理学部助手となりまが、4年後その職を辞し内村から派遣され、伝道のために向かった先が山形県小国という、小さな農村でした。そこで鈴木が創ったのが、基督教独立学園という小さな全寮制の高校でした。私はそこの49期生です。入学したときには、鈴木初代校長は召されていたので、直接会うことはありませんでした。しかし、内村のキリスト教信仰の影響ははっきりとそこに刻まれていました。と言っても、内村の信仰やキリスト教思想を把握するにはあまりに広く、高校生の私には断片的な学びしか出来ませんでした。

若松英輔さんは批評家・随筆家であり、カトリック信者でもあります。回心、入信、死者、非戦、再臨、訣別、宇宙の7つのトピックから内村に迫っており、私の中での内村像が深められました。特に印象的だったのは、内村の影響を受けた人物として、徳富蘆花・志賀直哉・柳宗悦・石牟礼道子・神谷美恵子などが挙げられていた点です。キリスト教の枠を超えて、内村は深い影響を与えたのです。一読をお薦めします!(有明海のほとり便り no.87)

深い痛みの共感を持った収穫感謝へ

福島から自主避難したあるご家族は、3・11によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所事故で、親子3人で暮らしていた福島の家から自主避難されました。住んでいた家はまだ建てて少ししか経っていなかったそうです。自主避難先では親子3人で過ごしましたが、お父さんは放射線量がまだ高い職場に戻るため、単身赴任になってしまいました。その子はお父さんの事が大好きです。お父さんもその子の事が大好きです。また、もともと住んでいた家の近くに住むおじいちゃんやおばあちゃんは、帰ってきてほしいと願っています。もちろん出来るならそうしたい。けれでも、放射線量の高い所に、家族みんなで引っ越すことは出来ません。そのことを巡って、お母さんとお父さんは何度もケンカになったそうです。気が付けば、両親がケンカをしている姿を見て、また、大好きなお父さんと離れ離れに生活する悲しさから、その子はストレスを溜めてしまっていたのです。お腹が痛くなって、学校に行けなくなって、はじめてそのストレスに気付かされたと、お母さんは泣きながらお話をされました…。

神さまが創造した豊かな自然は、人間が撒き散らした放射能汚染によって傷つけられました。いま放射能汚染によって苦しんでいるお百姓さんがいます。いま食べ物を心から安心していただくことが出来ない現実があります。

収穫感謝礼拝を通して、私たちはこの「感謝」を上辺だけのものとするのではなく、「深い痛みの共感を持った感謝」にしていくことが必要です。そのために、たとえ遠く離れていたとしても、被災地からの声に耳を傾けることを大切に続けていきましょう。(有明海のほとり便り no.86)

田中一村、和光伝道所

奄美大島に到着した初日、田中一村記念美術館を訪問しました。絵画に疎い私は、「田中一村(1908~1977)」という名をその時、初めて知りました。南画(水墨画)の神童としていち早く活躍した一村でしたが、日本画へと画風を変えてからは、苦労と挫折が続き、その晩年に至るまで評価されることはなかったそうです。亡くなって10年が経ってからようやく再評価され「日本のゴーギャン」とも呼ばれています。

全くど素人の私にもはっきりと分かる絵の変化がありました。ハッとさせられ、魅入ったのです。それが、一村が50歳で1958年の暮れに奄美大島に移住してからの作品たちでした。

一村にとって奄美は、単なる異郷の地ではなく、自己の芸術を開花させるべき“約束の地”ではなかったか。(「田中一村考-「琉球弧」で開花した日本画-」金城美奈子)

「単なる異教の地」ではない、<いのち>の息吹に触れた瞬間でした。

国立療養所奄美和光園内にある和光伝道所も訪問しました。田中一村は、奄美和光園との出会いの中で、近くにアトリエを構えたそうです。

名瀬教会の青山実教師から、今は信徒もいなくなり、年数回の礼拝を守るのみと説明を受けながら伝道所に入ると、部屋に射し込む光、椅子の並び、講壇、その一つ一つが目に焼き付きました。<ここ>にある福音・恵み。確かに礼拝が守られていた息吹(プネウマ)。

あの息吹(プネウマ)と同じ神さまの聖霊(プネウマ)が、ここ荒尾教会においてますます強く吹くことを祈ります。(有明海のほとり便り no.85)

『苦海浄土』

『苦海浄土』(著・石牟礼道子)を読みました。

水俣病と向き合ったこの本の存在は、かなり前から知っていたにも関わらず、手に取ることはありませんでした。担いきれないような問いかけに出会うことを、どこか避けていたのです。しかし、礼拝にも数回出席されたSさんから、ぜひ読むように薦められ、また石牟礼道子さんが2月に亡くなられたことも相まって、新装版の文庫を購入しました。

とても驚きました。今まで読んだことのあるどんな作品とも違ったものでした。ルポタージュのようなものを予想していたのですが、実際はとても文学的・詩的で、その独特の表現一つ一つが光を放っていました。水俣病を様々角度で描いているのですが、それはもう魂にまで掘り下げていました。胎児性水俣病の杢太郎くんと暮らすおじいさんの場面にもそれが見られます。

あねさん、この杢のやつこそ仏さんでござす。こやつは家族のもんに、いっぺんも逆らうちゅうこつがなか。口もひとくちもきけん、めしも自分で食やならん、便所もゆきゃならん。それでも目はみえ、耳は人一倍ほげて、魂は底の知れんごて深うござす。一ぺんくらい、わしどもに逆らうたり、いやちゅうたり、ひねくれたりしてよかそうなもんじゃが、ただただ、家のもんに心配かけんごと気い使うて、仏さんのごて笑うとりますがな。それじゃなからんば、いかにも悲しかよな眸ば青々させて、わしどもにゃみえんところば、ひとりでいつまでも見入っとる。

まだお読みでない方は、ぜひ手にとって読んでみることをお薦めします。

(有明海のほとり便り no.84)

さわやかな風を呼び戻す

先日、敬愛する深澤牧師(佐世保)より、『踏みとどまる』と題された、F牧師の説教集をいただきました。実はこの本は、友人牧師たちの間で「幻の説教集」(?)と囁かれるほど入手困難(非売品)かつ評価が高く、ぜひ一読したいと願っていたものでした。深澤牧師は私が一度懇願したことを覚えていて下さったのです。

「あとがき」に、この説教集が出された経緯が記されています。

佐世保教会の長老であるAさんから、亡き妻・Kさんの記念として説教集を発行できないかとお申し出をいただいた。〈中略〉わたしを自由に語ることへと促してくれた、他ならぬKさんの言葉を記して終わりたい。〈中略〉「青年会の頃は、若くて、激しい情熱を持っていらした善野先生の御指導の下に、バルトのキリスト教倫理など、がんばって勉強しました。その頃植えつけられた反骨の精神と批判精神は、いまだに失ってはいないつもりです。その後、牧師先生が替わられるごとに、反抗しながらも、さらに新しいことを教えられてきましたが、その間、私が何時も求め続けてきたテーマは、まことの自由であったという気がします。〈中略〉けれども、最近は、そういう自由の雰囲気が失われつつあるようで、寂しい気がします。皆が謙虚な気持ちで原点に立ちかえって、イエスの教えに学び、もう一度、さわやかな風を呼びもどしたいものです」

Kさんだけでなく、2000年前の初代教会から始まり今日まで、信仰の先達たちは、まさにこのキリストによる自由なさわやかな風を吹かせ続けて下さったのです。その風を、私たちも呼び戻していきましょう。(有明海のほとり便り no.83)

教団総会で一つの「奇跡」が!

二年に一度の教団総会が開かれました。残念ながら最近の教団総会では、4:6の状態が続いていました。私はいつも「4」の立場で、地方や社会の痛みに立って教団を一歩でも開かれたものになることを願う議案は、悉く否決されました。今回も予想通り、「4」が提案・賛同した大切な議案は悉く否決され、とても悲しくなりました。

さて、教団総会の下に三役(議長・副議長・書記)そして常議委員が置かれますが、全数連記制を「6」の方たちが通した結果、全員が「6」の方たちで「4」の立場の方は入れないという歪な構成が続いていました。

しかし、何と今回の三役選挙で思わぬことが起こりました。教団副議長に、北海教区議長の久世そらち牧師(札幌北部)が、187票で当選されたのです!2位の方とはたったの12票差、過半数を取るには181票が必要だったので大接戦です。久世先生は私たちの母教会を牧会されている方で、何よりも地方教区や社会の痛みに立ちつつ発言してきました。さらに常議員選挙においても、九州教区議長の梅崎浩二牧師(大牟田正山町)が当選されました!

それでも「4」の立場は少数ですが、今までは三役・常議員会に入ることがそもそもありえませんでした。風向きが変わってきました。「6」の方たちの中に、痛みに気づき共に歩もうという方たちが生まれてきています。

日本社会の痛みと闇が深くなる中で、教団そして私たちの教会が少しでも神さまの栄光を表すことが出来るようになることを祈ります。

(有明海のほとり便り no.82)