「夏の保育アカデミー」というオンライン研修の中で、講師の井桁容子先生(コドモノミカタ代表)が、「子どもへのまなざし」について次のような問題提起をされました。
井桁先生が保育者になって抱いた素朴な疑問は「なぜ、子どもへの対応がこんなにも違うのか?」というものでした。そのことを先生なりに追求していくとあることに気付かされます。「子どもへのまなざしの違い」なのだと。そして「なぜ見え方が違ってくるのか?」という問いを追求していきます。
私自身、このキリスト教保育の現場に遣わされて、先生がたそれぞれに子どもへの対応が違ってくることに気づかされ、時に学ばされ、時に考えさせられてもいます。
井桁先生は、この問いへの一つのアプローチとして、「見る」と「観る」は違うことを指摘され、それぞれを次のように定義されます。
「見る」とは、目にものが見える働きのこと。
「観る」とは、目に見えないものを見出すこと。全身全霊を総動員して物事の核心を捉えるためにみること。
「私たちは目の前の子どもたちを単に見てしまっていないか?目には見えない所に確かにある子どもたちの輝き、<いのち>を見出そうと、全身全霊を総動員しているか? 子どもへのまなざしが「観る」になっていった時に、保育が変わっていく」
これはそのまま「キリスト教保育」に繋がります。見えないもの(心の育ちや内面、結果ではなくプロセス)に目を注ぐこと、そして何よりも、私たちを「友」と呼んでくださる見えない神さまに目を注ぐこと…。
普段の園や家庭生活、あるいはクラス参観や運動会での子どもたちを、ただ見るのではなく、深く観ることが出来た時に、愛が溢れる出会いになっていくと信じています。